藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程10 閉腹

小説

公園の緑道

 その日は、詩穂の退院日だった。詩穂は宵深の霊気により負傷した右腕の手術のため、大学病院に1ヵ月近く入院していた。大出血により志保は危篤状態となっていたが、誠司の現場での止血処置によって一命を取り留めていた。

 詩穂の傷ついた腕は深く腱と神経を損傷していた。神経は何とか接合することができ、完全麻痺は避けられたが、精緻な動きは不可能だった。手に力が入らず、重いものを持つこともできなかった。主治医からは、詩穂が再び手術ができるようになるのは一生無理だと言われていた。手術に生きがいを見出していた詩穂にとって、それは死刑を宣告されるようなものだった。

 詩穂の両親と共に詩穂を自宅まで送り、詩穂が大まかに入院の荷物を解くのを待った後、誠司は詩穂と散歩に出かけた。散歩の間、詩穂は左手に握った真鍮の髪飾りを見つめているばかりで、一言も喋らなかった。手術することが不可能と宣告されて以来、詩穂は塞ぎがちとなり、口数が少なくなっていた。そんな詩穂にかけられる言葉などなく、誠司にはただ一緒に時を過ごすことしかできなかった。宵深の霊気で傷つけられた右脚が、少し疼いた。

 季節は移ろい、秋空が悲しくなるほど遠くまで澄み渡っている。奥磨市ではとても珍しい、雲ひとつない晴れ空だ。空気は爽やかでありながらも、凛とした冷たさが肌を刺す。

 詩穂の自宅の近所にある、公園の緑道の中を2人は肩を並べて歩いていた。何か目的があるわけでもなく、ゆっくりと。緑道の樹々は既に紅葉し、落ち葉が散り始めていた。

「良い天気だな――」

 誠司は空を見上げ、誰に語りかけるでもなく、呟いた。

 狂気から解放された宵深は、あの世で愛する男と一緒になれただろうか。その場所は恐らく、天国ではないだろう。黒石郷三郎の怨念に囚われていたとはいえ、宵深の行った行為は許されるものではない。それでも少しでも何か、救いがあってほしいと誠司は思った。

 そして、最期まで医師として、病院長として患者と病院スタッフを想って亡くなった黒石院長は今の自分達を見てどう思うだろうか。志半ばで倒れた志賀野は、事件の結末をどのような心持ちで見ていたのだろうか……。

 ――そういえば。

 五十年前に御神体にメスを突き刺し、怨霊と化した黒石郷三郎を封印したのは誰だったのだろうか。誠司は最後の事件の夜から、ずっと考えていた。志賀野は息を引き取る間際、こう言っていた。

『俺の祖父の遺体は、あの旧・手術室の中で見つかったらしい』

 もしかして、自らの命と引き換えに御神体にメスを刺したのは志賀野の祖父だったのではないだろうか。志賀野はこうも言っていた。

『志賀野は三代にわたって敗けたんだ。完敗だよ。……あの、血染めの白衣の女ってやつにな』

 しかし、怨霊を50年にもわたって封印し続け、そして長い時を超えて現代の誠司達に事件解決の解答を残した志賀野家は、実は既に勝利していたのではないだろうか。今となっては、真実を確かめる術はない。メスを突き刺した御神体は厳重な金庫の中に入れ、黒石家の敷地の、できるだけ深くに埋めた。

「何を考えてるの?」

 気が付くと、ずっとうつむきながら歩いていたはずの詩穂が誠司を見上げていた。詩穂に他人を気遣う余裕が戻ってきていることに誠司は少し驚くとともに、安堵する。

「いや、なんでもない。ぼうっとしてごめん」

 誠司の謝罪に詩穂は答えず、両手を後ろに組んだまま、少し前を歩き出す。誠司の1、2メートル程前まで進んだ所で、突然詩穂は振り返る。詩穂は満面の笑顔だが、少し顔が引き攣っている。

「あーあ、食いっぱぐれちゃったな。結構手術するの、好きだったんだけどな」

 詩穂はぎこちなく動く右腕を見て笑う。無理に明るく振る舞おうとする詩穂が痛ましい。

「ねえ、私、これからどうしたらいいと思う?」

 詩穂の瞳は、少し潤んでいた。

 誠司はゆっくりと考え、答える。

「手術ができなくなったって、医者として患者を助ける方法はいくらでもある。詩穂なら手術以外にも楽しいことはいくらでも見つけられる。それに……」

「それに?」

 詩穂は首を傾げる。誠司が詩穂を見つめる。

「これからは僕が、君の手になる。君の分も手術して、たくさんの患者さんの命を助ける。……そして、君の手で持てないものは僕が全部代わりに手に取って、君に届けてやる」

 詩穂は、暫く呆けていた。詩穂の様子を見て、誠司は自分の言ったことの意味を遅れて理解する。

「いや、あの、君の手術の腕には遠く及ばないからまだまだ修行しなきゃだし、別に『君の手になる』というのに深い意味があるわけではなくて……」

 普段は淡々としていることが多い誠司が慌てふためき言い訳をしている様を見ているうちに、詩穂は吹き出してしまった。

「ふーん、そうか。それじゃあ、これからもずっとよろしくね。……私の手君!」

 詩穂は動かない方と反対側の手で誠司の背中を思いっきり叩き、笑っている。誠司は怒ったふりをしたが、詩穂につられて、笑ってしまう。

 一陣の風が落ち葉を舞い上げる。風が吹き抜けた後には陽の光が熱を帯び始め、暖かく緑道を包み込んでいた。

 了。

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