藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程9 肝臓切除 (工程0の続き)

小説

ICU(集中治療室)

 黒石院長の生家を探索してから更に1週間程が過ぎた。あの後、誠司と詩穂は屋敷内を隈なく探したが、結局有力な手掛かりは何も得られなかった。

 黒石院長の死後も、血染めの白衣の女の犠牲者は増える一方で、病院に少しでも関わった人間が毎日何人も、無残に殺されていく。最初の事件からもうすぐ1か月が経ち、犠牲者の数は百人近くにまで及んでいた。

 だが、病院内の患者の移動は、いよいよ最終局面を迎えていた。

 この夜を乗り越えれば、全てが終わる。明日で黒石病院の入院患者全員の搬送が完了する。院長の死により、黒石病院の歴史の幕が閉じることは確定した。主を失った病院での最後の当直を、誠司が勤めていた。 

 数多の人間が切り刻まれた病院は、もはや廃病院と化していた。灯りの消えた廊下には瘴気とでもいうべき異様な気配が立ち篭めていた。

 誠司は寝ずの番をするつもりで、ICU(Intensive Care Unit:集中治療室)を見張っていた。残りの患者は全員ICUに集められていた。

  ICUは病院内で最重症の患者を対象として、集中治療を行うための病棟である。ICUは4階にあり、緊急手術の前後に出入りできるように3階手術部脇のエレベーターと直結していた。病床は全部で15床あり、人工呼吸器管理はもちろんのこと、個室で血液透析もできるようになっていた。普段はほぼ満床で、1~3人の患者に対して1人の割合で看護師が受け持ち、24時間常に監視している状態となる。残りの入院患者はICUに集められ、人工呼吸器がつながれている最重症患者5人と、それに準ずる重症患者や、社会的理由で帰る先のない4人の患者を残すのみなっていた。

 フロアの中央に円形のナースステーションがあり、四方に並んでいる個々の病室やオープンスペースのベッドを見渡せるようになっていた。オープンスペースでは部屋の区切りがなく、ベッドが並べられて、カーテンでのみ仕切られている。誠司はすぐに異常が察知できるよう、ナースステーションの中央に座って監視を続けていた。警察官も何人か配置されているが、相手が拳銃など通用する相手でないことは既に分かりきっている。皆怯えた顔をしており、頼りになりそうもない。

 既に消灯はされており、ICU中央にあるナースステーションの中の灯りだけが四方を照らしている。ナースステーションには絶えず心拍モニターの規則正しい電子音が鳴っており、時折患者の身動きでモニターが乱れ、けたたましいアラーム音を鳴らしている。その日は血染めの女が現れることなく、静かに時が流れていた。時刻は深夜1時をまわった頃であった。

 どうかこのまま何事も……、何事もなく終わってくれ――。

 誠司は監視を続けながら、祈り続けていた。しかし、その祈りがやはり叶わぬものであることは、間もなく明らかとなった。

「ぎゃあ!」

 個室の中から男性看護師の悲鳴があがり、激しく物が崩れ落ちる音と共に血飛沫があがる。その個室の患者に接続されているはずの心拍モニターがアラーム音を鳴らし、致命的な異常が起こったことを告げる。部屋の前の通路へ血液が滔々と流れ出してくる。周囲にいた看護師達が悲鳴を上げながら逃げていく。

 誠司は座っていた椅子から立ち上がり、異常が起こった部屋の方を見る。自分の心臓の鼓動が激しく高鳴っていくのを感じる。

 個室の中の暗がりから、音もなく血染めの白衣の女が現れた。悪霊と化した黒石宵深だった。写真の中と変わらぬ美しい姿を保ちながら、返り血に染まった白衣に身を包み、現世を彷徨う。近づく者全てを絶望の底に突き落としてしまうような、禍々しい狂気を全身から発していた。

「手を上げろ! 動くな!」

 1人の勇敢な警察官が女の前に立ち、拳銃を突きつける。しかし、声と手が可哀そうな程震えている。

 宵深が小虫を払うように右手を振るうと、あっけなく警官は弾け、細切れの肉片になってしまった。まるで、小さな花火が爆ぜたようだった。

 冷酷な笑みを浮かべながら宵深はICU内を徘徊する。宵深はオープンスペースの方へ歩き出す。宵深の通り過ぎた傍らでオープンスペースに並べられた患者達が切り刻まれ、ベッドの上で絶命していく。血に塗れた心拍モニターの脈波形が平坦となり、次々と警告音を鳴らしていく。

 何重にも鳴り響くアラーム音の中、誠司は走り出し、宵深の行く手を遮る。誠司が宵深と再び相見えたのは、玄関ホールでの事件以来であった。宵深は面白い玩具を見つけた、とでも言いたげな様子だった。

「それ以上人を殺すのはやめろ! こっちに来るんだ!」

 誠司は宵深を挑発し、ICUの外へ誘き出そうとする。宵深は誠司の挙動を興味深く思ったらしく、誠司の後を追うこととしたようだった。誠司は円形のナースステーションに沿って走り、ICUの出口へ向かう。

 宵深は悠々と歩いて付いてくる。途中、恐怖で混乱した患者が個室から宵深の前に走り出て、宵深に首を切断された。アルコール中毒で家族を失い浮浪者となった男で、生活保護による社会保障を頼みに無理矢理入院を続けていた男だった。死を悲しむ家族が誰もいないのが哀れだった。

 誠司はICUを出て廊下を走る。遥か後方を歩いていたはずの宵深がすぐ近くまで迫っていた。誠司は走りながら廊下に置いてあった回診車を引っ張り、廊下に倒してバリケードとした。回診車はステンレス製の医療用ワゴンで、ガーゼや包帯、処置用の器具などが詰め込まれている。横にすれば廊下を塞ぐほどの大きさがあったが、宵深が手をかざすと瞬く間に細断されてしまい、バリケードとしての役割を成さない。多少の時間稼ぎにでもなればと思ったが、誠司は気にせず走り続ける。

 誠司は四階から階段を駆け下り、3階へと降りた。度重なる増築と改築で新旧が織り交ざり、複雑に曲がりくねった廊下を駆け抜けていく。音がよく反響する廊下に、誠司の走る足音だけが響き渡る。誠司には目的地があった。もし宵深が出現しなければ、行かないつもりだった。全ての始まりの場所、旧・手術室へ。

手術部

 医局の前も走り抜け、手術部の中へと進入する。手術部の自動ドアが開くのを待つ間にも宵深が迫っており、追いつかれそうになったが、開いた自動ドアの隙間に身体を滑り込ませる。手術部の廊下は非常灯で薄明るく照らされていた。

 誠司は手術部の12個の手術室の前を全速力で走り抜ける。50メートル程ある直線の廊下を走り抜けば、旧・手術室に辿りつく。旧・手術室の扉は鑑識の捜査が中断されて以降、開きっぱなしになっていた。

 あと、もう少し……!

 しかし、旧・手術室にあと1歩で踏み込むという所で、宵深の刃のような霊気が誠司を襲う。霊気が走っている誠司の右脚を掠めたのか、脹脛が大きく切り裂け、大出血する。急に右脚の力が抜けた誠司は無様に転ぶ。腱や骨まで切れてはいないようだが、激痛ですぐに走り出すことができず、傷を押さえてうずくまる。

 誠司の許に、宵深がゆっくりと歩いて辿りつく。必死に足掻く誠司を面白そうに眺めていたが、やがて万策尽きた誠司に興味を失ったようだった。誠司に右手を振りかざし、とどめを刺そうとする。

 だめか……!

 誠司が生きることを諦めた、その時だった。

「待って!」

 高い女性の声が、手術部の廊下に響いた。

 誠司は顔を見上げ、宵深が後ろを振り返る。

 そこには詩穂が両手を膝の上につけて立ち、肩で息をしていた。

「詩穂! なんでここに!?」

 誠司が叫ぶ。

 日中の仕事が終わった後、詩穂も最後の当直に残ることを申し出ていた。誠司はその申し出を強く拒んだ。詩穂は頑固に食い下がったが、今夜は絶対に病院に来ないように誠司に言われていた。

 しかし、それでも誠司の身を案じていた詩穂はこっそり医局に身を潜めていたのだ。ICUから逃げてくる看護師達の悲鳴や足音を聞き、何かあったことを察した詩穂は医局のドアから外の様子を伺っていると、誠司が宵深に追われて手術部の方へ向かって走っていくのを目撃した。医局の中に再度身を隠し、誠司と宵深が手術部の方へ向かって過ぎ去っていった後、後を追いかけてきたのだ。

 詩穂は宵深に向かって右手を突き出す。

「ねえ! これ、もしかしてあなたのじゃない?」

 詩穂が右手を開いて見せる。掌の中にあったのは、黒石家で見つけた勿忘草の花を象った真鍮の髪飾りだった。

 無表情だった宵深が、わずかに眉をひそめ、詩穂を睨む。それは、無機質な笑みを浮かべていることが多い黒石宵深が、初めて見せた不快の表情だった。不意に、宵深が誠司に向けるはずだった右手を、詩穂の方に向ける。宵深の動作に気付いた誠司が、叫ぶ。

「詩穂、逃げろ!」

「……あぁっ!」

 宵深の右手から発せられる霊気について話を聞いていた詩穂は、とっさに身を躱そうとした。だが、見えない刃を躱しきることができず、右腕を深く抉られる。真鍮の髪飾りが詩穂の手から零れ落ち、床に落ちて高い金属音が鳴る。

 宵深は真鍮の髪飾りの方に歩いて行き、落ちた髪飾りを見下ろしている。やがて、重傷を負って身動きを取れずにいる詩穂の方を見る。詩穂にとどめを刺そうと、悠然と右手を向ける。

 詩穂の右腕は傷が芯まで到達しており、もはや指先の感覚がない。大量の出血と激痛で意識が遠のく詩穂の眼前で、宵深の手が広げられた。全てが終わろうとしていた。

 ぐあああああああああああ!

 低く太い、男の悲鳴が響き渡った。もしくは、詩穂にはそのように聴こえたように感じた。詩穂が宵深の方を見ると、宵深は苦しそうに屈みこんでいる。そして、宵深の身体から全く別の男が分離されて現れ、胸を押さえて苦しんでいた。詩穂はその男の容貌に見覚えがあった。それは、黒石家の写真の中で見た男だった。

「やはりあなたが元凶か……、黒石郷三郎!」

 誠司が叫んだ。誠司は旧・手術室の中央、手術台の傍らにいた。宵深が髪飾りや詩穂の方に気を取られている隙に、誠司は這いつくばって移動し、旧・手術室の中に置かれたままだった古めかしい樹の丸太にメスを突き立てていた。メスは、黒石家の宵深の部屋で見つけたものだった。メスの輝きに底知れぬ力と秘密を感じた誠司は、メスを持ち帰ることにしたのだった。

 誠司は黒石家を調査してから、ある仮説に辿りついていた。それは、宵深の現在の姿が宵深そのものが亡霊となったものではなく、怨霊化した黒石郷三郎に憑り憑かれた姿であるというものだった。

 黒石家の調査で得られる宵深の人物像と、血染めの白衣の女としての宵深の姿が、誠司の中ではどうしても一致しなかった。調査を進めて生前の宵深の人物像が明らかになればなる程、その違和感は強くなる一方だった。

 宵深と直接対峙したことのある誠司だからこそ、ますますそのように感じられた。玄関ホールで見た宵深の冷酷な微笑には宵深自身の感情は読み取れず、むしろその微笑の背後には底知れぬ悲しみすら感じられたのだった。

 では、怨霊化したのが黒石郷三郎だったとしたらどうだろうか。黒石郷三郎は地鎮守としての儀式の遂行に固執していたという。特に、60年前の儀式の時には別人のように人格が変わっていたらしい。数多の生き血を吸って魔性を帯びた『御神体』に魅入られていた郷三郎は、死の瞬間と同時に御神体に囚われてしまった。そして、狂気の怨霊と化した郷三郎は、実の娘である黒石宵深の霊に憑りつき、血染めの白衣の女が誕生した。血染めの白衣の女は狂気の赴くままに血を求めるだけの存在に成り果ててしまった。

 御神体、すなわち旧・手術室に安置されていた古めかしい樹の丸太こそ、現在の黒石郷三郎の本体だったのではないだろうか。昔、奥磨群で産出されていた『奥磨鋼』は医療器械の素材としても使われることがあった。破魔の力を持つという『奥磨鋼』で作られたメスが御神体に突き刺されることによって、郷三郎の霊は御神体ごと50年間封印されていた。しかし、闇の力が増す『大禍時』の夜に、何らかの理由でメスは抜かれ(瀧田が御神体に魅入られて、抜いてしまったのかもしれない)、血染めの白衣の女が復活した。昔から病院を彷徨っていたという白衣の女は、狂気から開放された状態のまま、悲しく何かを探し求めて歩きまわる宵深の姿だったのではないだろうか。

 これらは、全て誠司の仮説に過ぎなかった。不足している情報を想像でつなぎ合わせている部分が多く、仮説というよりは、限りなく誠司の『勘』に近かった。勝率は低いと言わざるを得ず、不用意に御神体に近づけば返り討ちにあう可能性の方が高かった。もし再び黒石宵深と対峙することがなければ、実行に移すことはしないつもりだった。

 ぐおおおおお……!

 黒石郷三郎は苦しみ、悶え続ける。郷三郎の霊体は、徐々にその形を崩していく。郷三郎は誠司を睨みつける。

 覚えてろ、小僧。私は必ず蘇り、次こそは貴様を……!

「御託はいいから、とっとと消えろ!」

 誠司はメスを握りしめる手に、更に力を込める。メスを突き立てた箇所から、御神体が今まで吸い続けてきた血が溢れるように流れ出る。まるで生きている物に刃物を突き立てた時のように。

 郷三郎の霊体が散り散りになっていき、その断片が御神体の洞の中に取り込まれていく。傍らにいた誠司の中に、郷三郎の禍々しい感情と共に過去の記憶が流れ込んでくる。

 50年前の『大禍時』の夜、『獣』である緋村を旧・手術室で殺害し、血を御神体に捧げた時の悦び。緋村の死体を刻み続けている所を発見され、怒りで我を失った宵深にその場にあったメスを突き刺された瞬間の痛み。全ての希望を失い、自分の胸にメスを突き立て命を絶つ宵深の姿。死後、御神体の狂気と一体となり、自分の娘をも取り込んで全く新しい存在に生まれ変わった瞬間の高揚感。血染めの白衣の女として、人間を切り刻んでいる時の悦楽――。

 50年もの間、消えることなく燃え続けた狂気の炎が、飛散して消えていく。いや、その狂気の炎の正体は、数百年もの長きにわたって蓄積され続けた、山々の獣や人間達の憎悪の念だったのかもしれない。

 郷三郎は、消滅した。誠司はメスを握りしめていた手を離した。郷三郎が完全に御神体の中に封印されたのを見届けた後、詩穂と宵深の方を見た。

 宵深は呆然として、その場に跪いていた。自分が今まで何をしていたのか、何故この場所にいるのかすらも分かっていないようだった。まるで迷子の幼子のように戸惑い、心細そうな表情を浮かべていた。白衣を染め上げていた返り血は、いつの間にか消えて真っ白になっていた。

 詩穂は負傷した右腕を左手で押さえていた。遠のきそうになる意識をかろうじて保つ。左手で真鍮の髪飾りを拾いあげると、宵深の許へふらつきながら駆け寄っていく。

「ねぇ、宵深さん。やっぱりこれ、緋村さんからあなたへ贈られた物なんじゃないの……?」

 詩穂は宵深の前に真鍮の髪飾りを差し出す。勿忘草の花の意匠が、詩穂の掌で小さく可憐に花開く。宵深が、詩穂の手ごと包み込むように真鍮の髪飾りに両手を伸ばす。勿忘草の花言葉は、『真実の恋』だった。

 宵深、やっと本当の君に会えたね。

 詩穂は、知らない男性の声が聞こえたような気がした。いつの間にか、詩穂と宵深のすぐ傍らに男性が立っていた。詩穂が、黒石家の納屋で見た男性と同じ人物の様だった。とても優しそうな表情を浮かべた男性だった。

 さあ、一緒に行こう。

 宵深が男性を見上げ、涙を流している。

 緋村さん……。

 男性が、宵深を支えて立ち上がらせる。男性は詩穂と誠司、それぞれに一礼ずつすると、宵深と共に朝露のように薄くなって消えてしまった。

「宵深さん、緋村さんに会えたんだね。よかった……」

 詩穂は全身の力が抜けてしまったように、その場にくずおれる。

「詩穂!」

 誠司が右脚を引きずりながら、詩穂の許へ駆け寄り、抱きかかえる。

「詩穂! 大丈夫か!?」

 詩穂は大量の出血のために息が上がり、顔面蒼白になっていた。誠司を見て、儚く笑みを浮かべる。

「誠司君。全て……、終わったんだね。2人とも生きて……また会えるね」

 そう言うと詩穂は目を閉じ、人事不省となってしまった。

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