黒石病院 屋上
その日、黒石宵深は病院の屋上で、人知れず涙を流していた。空は相変わらず曇っており、遠くの景色は霞みがかっていた。
「また、1人で泣いているのかい」
後ろから声をかける男性がいた。宵深は声のする方を振り向く。宵深を指導している医師の緋村だった。
「先生……」
緋村は宵深の隣に来て、屋上の手摺りに手をかける。宵深と一緒に遠くの景色を見渡す。
「先生……私、また患者さんを死なせてしまいました」
「君のせいじゃない。仕方のないことだった。私も手を離せない状況で、駆けつけてあげることができなくて済まなかった……」
当時は電気メスなどの手術機械の性能や、麻酔医学、集中治療医学など、全てにおいて未発達であり、術後の生存率は現在より遥かに低く、手術時間も長かった。
「父からは、女の私がする仕事ではないと何度も言われています。もう、何人もの患者さんを死なせてしまいました」
「外科医の仕事が、辛いのかい」
宵深が、緋村の方に向き直る。
「先生、私、やっぱり外科医としての才能がないのでしょうか。大人しく辞めてしまった方がよいのでしょうか」
「客観的に見れば君はむしろ、外科医としての才能に溢れていると思う。とても優秀な君だからこそ、自分の手で患者を死なせてしまうのが許せないのかもしれないな。辞めるべきかどうかは、君自身の心に聞くしかない」
宵深は再び、遠くの景色の方を見る。
「……ねえ、先生はどうして外科医になることを選んだんですか?」
「私かい?」
緋村は昔を思い出すように、少し首を捻る。
「……私は、命の瀬戸際で戦う仕事をしてみたかったんだ。この手で直接、こぼれゆく命をすくい上げてみせたかったんだ」
「命の瀬戸際で、戦う……」
宵深は、緋村の言葉を繰り返した。そよそよと、屋上の風が宵深の髪をなびかせる。
「……先生。私、もう少し外科医として頑張ってみてもいいですか……?」
緋村が深くうなずいた。
「君がそう望むのなら、もちろん。続けていけば、君は必ず素晴らしい外科医になれる。ただ、どうしても辛い時は外科医を辞めてしまってもいい。その時は……」
「その時は……?」
宵深が首を傾げる。
「私が、君の手になる。君が診て診断をつけてくれた患者を、私が手術するんだ。二人で力を合わせれば、これからもっと多くの命を助けることができる。手術するだけが医者ではないからね」
「先生……」
宵深は暫く呆然としていた。やがて暖かい気持ちがこみ上げ安心したのか、めそめそと悲しんでいた自分がおかしくなって、吹き出してしまう。緋村も宵深につられて笑う。
ひとしきり笑った後、宵深は何も言わず、緋村の胸に頭をもたれかける。緋村が、宵深の頭をそっと撫ぜる。屋上を吹く風の、穏やかな風鳴りだけが二人を優しく包み込む。
だが、そんな二人を屋上の入り口から、獣のような眼つきで盗み見ている人間がいた――。
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