藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程8 膵臓全摘

小説

医局

 院長室を出た誠司と詩穂は階段を降りて、3階の医局に戻ってきていた。時刻は既に夜の10時を過ぎていた。詩穂は事件が起こってからもいつも気丈に振る舞っていたが、病院で夜を過ごすことに対する不安を隠しきれない様子だった。

「今夜は僕も病院に泊まるよ。医局のソファで寝てるから、何かあったら呼んでくれ。すぐに駆けつけるから」

 誠司は詩穂を励ます。黙り込んでうつむいていた詩穂はふと、トン、と誠司の胸に頭をもたれかける。詩穂の頭のつむじが見えていた。

「誠司君……私、怖いよ。本当は今すぐここから逃げ出したい」

 詩穂の声は少し涙声だ。必死に泣くのをこらえているようにも見えた。誠司はかけるべき言葉を探した。

「大丈夫だよ、きっと。僕達は必ず生き抜けるし、患者さん達もみんな大丈夫」

 あまりの根拠の無さに誠司は自分で呆れる。しかし、それでも詩穂の気は幾らか紛れたようだった。鼻をすすりながら、詩穂は誠司を見上げる。

「ありがと。……誠司君って、意外と強いよね。図太いというか。付き合い長いけど、今回の事件があるまで気付かなかったなぁ」

「図太いとはなんだ、図太いとは」

 詩穂はクスクスと笑う。

「何かあったらすぐ呼ぶからね、よろしく。誠司君も気を付けてね」

 そう言うと、詩穂は医局を出て隣の当直室に向かった。

当直室

 詩穂は当直室に備え付けられていたシャワーを浴びた。当直室は間取りも雰囲気もビジネスホテルのシングル部屋のようであり、部屋の中にはベッドとデスクが設置されているだけで、デスクの上にテレビと時計が乗っているくらいしか物がない。床の青色のカーペット敷きと間接照明で落ち着いた雰囲気にはなっているが、窓はブラインドが閉められており、閉塞感がある。シャワーを浴びて髪を乾かした詩穂は、ベッドの上に仰向けに寝転んだ。

 ――誠司と詩穂に託された使命。黒石院長の生家で一体何が見つかるのか、そもそも何か手がかりが見つけられるのかどうか……。様々な思いが頭を駆け巡るが、日々の緊張で疲れ果てていた詩穂はいつの間にか深い眠りに落ちていた。

 デスクの上に置いていた当直医用のPHSが狭い当直室でけたたましく鳴り響く。PHSの着信音で詩穂は目を覚ます。時計を見ると、まだ深夜2時を過ぎたばかりだった。

「私、いつの間にか寝てたんだ……」

 PHSは鳴り続ける。病棟の患者に何かあったのだろうか。詩穂は重たく感じる体を無理やり叩き起こし、PHSを手に取る。ベッドに腰掛けたまま通話ボタンを押し、耳にあてがう。

「はい、朱崎です」

 キャハハハハハハ……

 詩穂の耳元で女の笑い声が響く。驚いた詩穂は、小さく悲鳴をあげ、すぐさまPHSの通話を切り、反射的にベッドの反対側に投げる。詩穂は自分の呼吸が浅く、激しくなるのを感じた。心臓が激しく鼓動し、音として聞こえてくるようだった。若い女性の声であったが、生きている人間の声ではないということが直感的に理解できるような、金属のような耳触りだった。

 PHSの着信音がベッドの上で再び鳴り響き、詩穂はビクリと身を震わせた。詩穂は音が鳴りやむの願うが、一向に着信音が鳴りやむ気配はない。やがて詩穂は震える手でPHSを手に取り、そっと耳にあてがう。さっきと同じ女の声が、囁く。

「死んで」

 ――誠司君を呼ばなきゃ。

 詩穂はすぐに立ち上がり、PHSを放り投げて出口の方に向かって駆け出す。しかし、詩穂がドアのハンドルに手をかける直前に、外から何者かによってハンドルが捻られる。詩穂は思わず伸ばした手を引っ込める。

 ガチャン! ……ガチャ、ガチャ、ガチャ……

「誠司君……?」

 ドアを開けようとしているのか、ハンドルは、何回も繰り返し捻られる。そして、ハンドルを捻る音が徐々に大きく、激しさを増していく。

 ガチャン! ガチャン! ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ!

 違う、誠司ではない。詩穂は蒼ざめ、ドアから遠ざかるように後ずさりする。

「もういや……!」

 詩穂は目をつぶり、両手で耳を塞ぐ。

 しかし、突然ハンドルを捻る音が止まり、静けさを取り戻す。詩穂は再び目を開く。自分の浅く、激しい呼吸音と、心臓が早鐘を打つ音しか聞こえない。

 ……コトン!……

 まるで誰かがそっと鍵をつまんで開けたかのように、静かに鍵が開かれる。

 きいいいい……

 ゆっくりと、ドアが開かれる。

 しかし、そこには誰もいない。詩穂は訳も分からず、ドアの外に誰かいないのか見ようと、少しずつドアの方に歩み寄る。

「探しているのは、私?」

 詩穂の耳元で女の声が囁く。血染めの白衣の女が、詩穂の背中にもたれかかるように寄り添っていた。

「きゃああああああ!」

 詩穂は再び出口の方に向かって走り出すが、目の前でドアがバタン!と閉められる。ドアのハンドルをいくら捻っても、開けることができない。詩穂がドアを背にして女の方を振り返る。

 血染めの女は冷酷な笑みを満面にたたえ、詩穂に近づいていく。詩穂は、恐怖で完全に混乱に陥いり、何も考えられなくなっていた。最後の最後で、いつの間にか自分が涙を流していたことに気が付いた。

「誠司君……!」

 間近まで迫った血染めの女の顔が、詩穂の眼が捉えた最期の映像だった。

 詩穂の身体は、幾重にも切り刻まれていた。

 詩穂は、当直室のベッドの上で、目を覚ました。呼吸はまだ激しく、背中にはびっしょりと汗をかき、冷たくなっていた。

「夢……?」

 窓のブラインドから朝の光が差し込み、部屋の中は白んでいた。詩穂は徐々に自分の状況を理解する。詩穂は当直室で眠りに落ち、恐ろしい夢にうなされていたのだ。血染めの白衣の女に襲われたのが夢の中の出来事だと分かり、徐々に落ち着きを取り戻していく。しかし、詩穂を支配していた恐怖の代わりに、嫌な予感が胸をざわつかせていることに気付く。不気味な予感は蛇のように鎌首をもたげ、いや増していく。

「まさか……、誠司君!」

医局②

 詩穂は当直室を飛び出て、隣の医局へ駆け込む。医局の扉を開けると、誠司は毛布を口元までかけて医局のソファで眠っていた。かすかに寝息が聞こえ、無事であることが分かる。詩穂は安堵し、胸を撫で下ろした。しかし、詩穂の不気味な予感が治まる気配はない。

 もしかして……。 

「誠司君、起きて!」

 誠司は詩穂に揺さぶられ、目を覚ます。

「詩穂……? 何かあったのか?」

「とても嫌な予感がするの。黒石先生のところに行こう!」

 誠司が医局の掛け時計を見ると、時刻はまだ午前6時前だ。

「黒石院長から何か連絡でもあったのか? この時間だとまだ病院に来てないと思うけど……」

「自分でも馬鹿げてるというのは分かっているの。でも、朝起きてからとても胸騒ぎがして……。どうしても、黒石先生の無事を確かめたいの!」

「胸騒ぎ……」

 誠司は起き抜けではあったが、詩穂の様子にただならぬものを感じた。

「分かった、行こう」

 2人は医局を飛び出て、院長室に向かった。エレベーターを待つ時間すらも異常に長く、待ち遠しく感じられた。13階に到着すると、エレベーターを飛び出て、院長室までの廊下を駆けていく。黒石院長が院長室にいる保証すら無かったが、部屋に近づくにつれ、詩穂の胸騒ぎはますます強くなっていった。院長室の前に辿りつき、詩穂がドアを叩くようにノックする。

「先生! 先生!」

 中から返事はない。

「先生……?」

 ドアノブに手をかけると、夜間の院長不在時は閉まっているはずの鍵が開いている。誠司と詩穂はドアを開け、院長室の中を覗き込む。

 院長が、いた。

 ただし、黒石院長は胴体で真っ二つに切り裂かれ、上半身と下半身は完全に分かたれていた。上半身はデスクの上にうつ伏せており、顔は見えなかった。下半身は床に無造作に転がっていた。夥しい量の血液がカーペットを赤黒く染めており、院長の身体から既に体温は失われていた。

「いや、いや……」

 詩穂は駄々をこねる子供のように首を振りながら、両手で顔を覆っていく。

「いやああああああ!」

 詩穂がその場に泣き崩れる。誠司は直面している現実を受け入れることができず、呆然とその場で立ち尽くす。

 誰よりも病院と患者のことを想い、誠司と詩穂に一縷の希望を託した黒石院長は、既にこの世からいなくなってしまっていた。

 誠司と詩穂が院長の遺体を発見して間もなく、秋田県警が院長室を封鎖し、実況見分を始めた。病院長の死に、警察官達も驚きを隠せない。誠司と詩穂は死体発見時の状況を一通り警察に話した後、医局に戻り、ソファに腰掛けていた。詩穂はずっと泣いており、両手で顔を覆ったままだった。誠司もかける声が見当たらず、傍らに座っていることしかできなかった。詩穂がやっと話し始めたのは、1時間ほど経ち、流れる涙も涸れてきた頃だった。

「……ねえ、私達これからどうすればいいの?」

 詩穂は泣き疲れた声でかろうじて誠司に問いかける。

 誠司は詩穂が泣き止むのを待つ間、ずっと考え続けていた。自分達にもいつ訪れるかもしれない死を前にしてやるべきことは、恐怖に震えていることや近しい者の死を悲しむことではない。ただ1つできることは、今の自分達にできることをやり続けることしかなかった。だから、誠司はその質問にはすぐに答えることができた。

「院長の遺志に応えよう。院長は亡くなる前に、院長の生家に行って手がかりを探してきてほしいと言っていた。今は、僕達にできることをするしかない」

「…………」

 詩穂は何も答えられなかったが、やがて、小さくうなずいた。

黒石家 敷地

 院長の遺体を発見した日の翌朝、誠司と詩穂は担当している分の患者達の指示を確認した後、残された他の医療スタッフに引き継ぎを頼み、病院を出発した。

 詩穂は青を基調として夏物のカーディガンを羽織り、白い帽子を被っている。誠司は白いシャツに、デニムといったシンプルな服装だ。山の方に向かうので、2人とも長袖を着ている。天気はやはり曇りがかっており、ジメジメとした暑さで息が苦しくなるようだった。

 誠司と詩穂は院長から渡されていた手書きの地図と住所を頼りに自家用車で目的地に向かった。車は誠司が学生時代に親から借金をして買った、中古の白のセダンを使った。車内の空気は重く、沈んでいた。誌穂はずっと窓の外を見ていたが、ふとした拍子に黒石院長のことを思い出しては、時々少し、泣いていたようだった。

 黒石院長の生家は病院から車で30分程の距離であり、奥磨市の山奥の方にあった。道幅や土地の広い平野部を抜け、徐々に山間の狭い道に入っていく。公道から舗装されていない山道に入り、車で10分間程走る。車はゴトゴトと揺れ、道の両側から草木がせり出してくる。本格的な山道だ。

 山道を走り抜けると木々が開け、黒石院長の生家の敷地に辿りついた。誠司と詩穂は敷地内の空いてる所に適当に車を停め、降りる。敷地の周囲も鬱蒼と茂る木々に囲まれており、山の中の爽やかな空気に包まれて暑さも和らぐ。

 黒石家の屋敷は洋風の邸宅で、白い外壁に、屋根は紺色の洋瓦だ。3階建てで、中も相当広そうだ。豪邸だが、築50年以上のはずであり、造りには歴史を感じられる佇まいがある。近隣に民家はなく、屋敷の傍らを幅2、3メートル程の小川が流れている。小川の反対側には大きな庭が広がっている。庭の草木は伸び放題だが、洋風の裸婦や兵士の彫刻などが数点建てられており、まるで外国の家に迷い込んでしまったような錯覚を覚える。こうした異国情緒は、当時としては最先端の西洋医学を取り込んだ名家・黒石家の医学者としての側面が織りなすものなのだろう。庭の屋敷と反対端には小さな納屋が建っている。

 家の敷地の奥には更に急峻な山道が続いており、洋風な家や庭とは打って変わって神社のような石段が見えている。

 誠司と詩穂は屋敷の探索の前に、その石段を登ってみることとした。石段は100段程あり、石段の両脇は山の木々が生い茂っている。木々の間を幾筋かの水が流れ、小川に注ぎ込んでいる。

 2人が息切れしながら石段を登りきると開けた場所があり、水量は多くないが落差10メートル程ある滝と滝壺、そして滝壺のほとりに古く巨大な樹木があった。小川に注ぎ込む水は、この滝壺から少しずつ溢れ出していたようだった。

 誠司と詩穂は巨大な樹木に近づく。樹木は樹齢1000年程もありそうな、古い杉の樹のようだった。樹木の本幹は誠司と詩穂が二人がかりで両腕をせいいっぱい伸ばしても抱えきれない程太い。本幹からは五本の幹が分かれ、そのうちの最も太い1本にしめ縄がかけられている。これが、黒石家が地鎮守として守っていた『御神木』だろうか。樹木の周囲には神聖な気配が漂っているが、どこか得体の知れない妖しさも秘めていた。

「黒石家は、『御神木』の一部である『御神体』に山の獣の血を吸わせ、山々の神を鎮めていた……」

 誠司は、黒石院長の言葉を思い出し、呟いた。更に『御神木』より山奥の方へ少し歩いていくと、大きな木造の社も建っている。社は古く、荘厳な社殿造りだ。入り口の木の階段は泥などの汚れが堆積しており、暫く人間が出入りした形跡はない。戸は閉めきられているが、内部には神事を行えるほどの空間の広さがありそうだ。黒石院長は8歳の時に山々の荒神を鎮める儀式に参列したと言っていたが、60年前の儀式はこの社の中で行われたのだろうか。

 誠司と詩穂は御神木と社の周囲を軽く散策したが、他に特に目につく物はなかった。石段を降り、黒石家の屋敷の方へ戻ることとした。

黒石家 屋敷1階

 いよいよ、誠司と詩穂は屋敷の中に入ることにした。屋敷の玄関は石造りだ。黒石院長から預かっていた鍵で玄関のドアを開ける。内部はやはり洋風の内装で、広い。確かに古く埃っぽいが、廃墟というほどの荒れ方ではない。黒石院長は普段は病院近くの賃貸に住んでいたが、数年に1度は立ち寄って簡単な手入れをしていたらしい。誠司と詩穂は屋敷内の探索を始める。

 1階はリビングルームや客間などがある。リビング・ダイニングだけで60畳程はありそうだ。部屋の中は埃だらけだが、質の良いアンティークな家具やインテリアが部屋を美しく飾っている。かつてここで幸せな時間を過ごしていただろう家族の姿が目に浮かぶようだった。ふと、詩穂がリビングルームの壁掛け棚に立てられていた写真立てを見て、指さす。

「誠司君、これ見て」

 その写真立てにはかつてここに住んでいた黒石家の家族写真が入れられていた。写真は白黒で、子供が前列に2人座っており、両親が後列に立っている構図だった。

 まず目についたのはまだ少年だった頃の黒石院長だ。50年以上も前の写真だが、あどけなくも凛々しい面影がこの頃から見てとれる。シャツに蝶ネクタイといった出で立ちで、何か記念事の際に撮影した写真だろうか。

黒石院長の後ろには母親らしい女性が立っており、息子の肩に手を置き、優しい微笑みを浮かべている。当時の女性らしく、髪型や服装は素朴だが、涼やかな美しい顔立ちをしていた。黒石院長は、母親は若くして亡くなってしまったとも言っていた。

 母親の左隣に立っている父親らしき人物が、黒石郷三郎だろう。黒石院長に目鼻立ちは似ているが、遥かに厳格で、気難しい雰囲気を漂わせている。年齢は40代頃のように見えるが、黒石病院の前院長としての風格たっぷりで、カメラ越しに向けられる視線にも、見る人を怯ませてしまうような威厳に満ちていた。彼は優れた医師として地域住民からの絶大な人望を集める一方で、地鎮守として秘祭を取り仕切る神主としての顔を持っていた。

 そして、父親の前、弟の左隣りに少女が座っていた。

「僕が見た姿より少し幼いけど、間違いない。血染めの白衣の女だ」

「じゃあ、やっぱり黒石先生のお姉さんが……」

 黒石院長の考えは正しかった。黒石院長の亡くなった姉、黒石宵深の亡霊こそが、血染めの白衣の女の正体だったのだ。善良だった黒石院長の姉が、何故恐ろしい怨霊へと変貌したのか。謎は深まるばかりだった。

 生前の黒石宵深、つまり写真の中の彼女は母親似で、涼やかな目をしたとても美しい女性だった。白黒写真でもきめ細やかな肌の質感が伝わってくるようだった。歳の頃は10代半ば頃のようで、少女のようなあどけなさを残しながらも、瞳の奥に深い知性を感じさせた。

「血染めの女の生前の写真を見つけることができた。本当に、この家の中で事件解決のための手掛かりが見つかるかもしれないな……」

「うん。もっとよく探してみましょう」

 少なくとも事件と関係しうる発見があり、二人の間に小さな希望の灯が燈る。

黒石家 屋敷2階

 客間も一通り見てまわった後、誠司と詩穂は家の奥にある階段を上って2階に上がる。2階には大寝室の他に3つの個室があり、部屋の中の物から推理するに、それぞれ母親、黒石院長、そして宵深の個室だったようだ。全ての部屋を見ていては時間が無いので、最も事件と関係のありそうな宵深の部屋を探索することとした。

 血染めの白衣の女が生前住んでいた部屋であり、いやでも緊張が高まる。誠司と詩穂は慎重に部屋の扉を開け、そっと中を覗き込む。しかし部屋の中は一見して若い女性の部屋であり、造花や化粧鏡など、装飾や家具も女性的で可愛らしいものが多い。誠司はいくら捜査のためとはいえ女性の部屋を漁ることに気がひけたので、詩穂が中心になって棚の引き出しなどを開けていく。

「これ、何かしら?」

 木製の洋箪笥の引き出しの中に、数枚の和紙に大切そうに包まれた箱が入っていた。包みを丁寧に剥がしていくと、中に包まれていたのは桐の箱だった。箱には手紙が添えられており、短い言葉が墨で書かれていた。

 外科医になった君へ     ()(むら)

 蓋を開けると、箱の中には赤い布地が貼られており、万年筆が入るくらいの大きさの窪みが2つあった。窪みの1つにはメスが入っており、もう一つの窪みは空になっていた。元々はメスが2本入っていたのだろうか。

「緋村さんって人から宵深さんに贈られたのかな。緋村さんって誰だろ?」

「さあ。ただ、添えられた言葉を見るに比較的近しい関係の人間から贈られたもののような雰囲気があるけど。……これは?」

 誠司はメスを手に取る。現在使われているステンレス製のメスとは異なる素材が使われているようだ。ステンレスにはない深みのある輝きを放っており、誠司は魅入ってしまった。50年以上も前のものであるはずだが、錆ひとつ浮いておらず、鋭さも全く衰えていないようだった。

「これは、僕達が普段使っているメスとはまるで違うもののようだな」

「とても高級な一品ものみたいね。外科医になった宵深さんに相応しい贈り物ということかしら」

 2人は更に宵深の部屋を探したが、他に目ぼしいものは見つからなかった。部屋の本棚に医学書は数多く並べられていたが、特に宵深の手記などは見当たらなかった。

黒石家 屋敷3階

 誠司と詩穂は2階の探索を終了し、3階に上がる。3階には収納部屋と、そして黒石郷三郎の書斎があった。

 誠司と詩穂は黒石郷三郎の書斎に侵入する。広々とした部屋の壁の一面は全て本棚になっており、黒石院長の院長室を思い出させた。本棚には邦書・洋書を問わず無数の医学書や、黒石病院と奥磨群にまつわる様々な資料がぎっしりと詰め込まれていた。反対側の壁にはヨーロッパの風景が描かれた大きな絵画が飾られており、高級感漂う木棚の上に置かれている小物も海外の民芸品が多かった。正面の壁には大窓があり、窓の手前にはグランドピアノを思わせるような重厚感のある書斎机が設置されていた。

 厳粛な空気の漂う部屋に、何か秘密が隠されているという予感があった。誠司と詩穂はただちに部屋の探索を開始した。

 詩穂は本棚から事件と関係がありそうな本を引き抜いては、ぱらぱらとめくっていく。莫大な量の書籍があるので全てに目を通すのは気が遠くなるような作業量だったが、読書好きで学業の面でも優秀だった詩穂にとっては苦しい作業ではない。手際よく本の要点を抽出しては、有用な情報の有無を選別していく。

 誠司は棚やクローゼットを片っ端から開けては中身を調べていく。ひと通り探してまわったが、手掛かりになりそうなものは無い。やがて、誠司は部屋の中央部で存在感を放っている書斎机に目を向けた。やはり、あの机の中にこそ何かあるに違いない、と誠司は思っていた。

 誠司はおもむろに書斎机に近づいていく。机は黒の大理石調で、机の上には高級そうな万年筆や洋書、ランプなどが置いてある。椅子も机に見合うような上質の革張りで、座り心地がよさそうだった。

机の右側には引き出しが三段あり、引き出しの最上段には厳重かつ強固な鍵が取り付けられていた。他の引き出しの中を探してみたが、鍵らしきものは見当たらない。試しに引き出しを引いてみても、当然開かない。強引に引き開けようとしても、頑丈な鍵はびくともしない。誠司は両手を腰に当てて立ち、鍵を見つめながら数十秒ほど考え込む。誠司は何かを思いつき、すたすたと部屋を出ていくと、同じ3階にある収納部屋からバールを持って部屋の中に戻ってきた。金属と金属がぶつかり合う音や、木が締めつけられるような音がして、詩穂は後ろを振り返る。誠司の挙動に驚きの声を上げる。

「誠司君、何してるの!?」

「鍵をこじ開けてるの」

 やがて、「ばきっ」という乾いた音とともに引き出しの鍵が壊される。

「鍵を壊すって、ここ黒石先生のご実家なんですけど……。しかもこの机すごい高級そう……」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ」

 誠司を非難しつつも、詩穂も近づいてきて引き出しの中を覗き込む。引き出しの中には実印や契約書などの最重要な物品や書類が保管されていた。そうした書類を掻き分けていくと、一番底に1冊のノートが出てきた。ノートは黒い革張りで、表紙には『院長誌』と書かれてあった。誠司がノートの表紙をめくる。ノートの各ページには内容を記載した日付が書いてある。最初のページには『1969年一月一日』と日付が書かれていた。

「50年前……。黒石院長のお父さんとお姉さんが亡くなった年だ」

誠司と詩穂は目を見合わせ、うなずく。誠司はゆっくりとページをめくっていく。万年筆で書かれた字は美しい書体で整っており、知性的であった。

「あっ、これ見て」

 詩穂が手を差し伸ばし、誠司のページをめくる手を止める。

『3月6日 緋村という医師が当院での勤務を希望し、訪れてきた。東京の方で医学を学んだが、この近辺が地元なので戻ってきたらしい。優秀だが、謙虚で気持ちの良い人間だ。きっと当院で存分に活躍し、奥磨群の医療の発展に貢献してくれるだろう』

「緋村さんって、さっきの箱に添えられた手紙に名前を書いた人ね」

「緋村はこの病院に転勤してきた医師だったようだな」

 誠司はページをめくっていく。

『4月21日 緋村は想像以上の活躍を見せてくれている。外科医としての技術も素晴らしい。彼ならきっと、外科医としての道を歩み始めたばかりの宵深のよい指導者となってくれるだろう。郷志も懐いているようだ』

「緋村は優秀な外科医で、黒石郷三郎からも一目置かれていたようだ」

「……」

「詩穂、どうかしたか?」

「う、ううん。何でもない」

 黒石郷三郎の手記を読み始めた頃から、詩穂は後ろから何者かにずっと見つめられているような気配を感じていた。しかし、後ろを振り返っても誰もいない。

 誠司は詩穂の様子が気にかかったが、続きを読み始めることとした。

『6月13日 緋村と宵深は私に隠れて会うようになっているようだ。宵深は緋村に好意を抱いている。医業に差し障りがなければよいのだが』

 達筆で落ち着いた字体が、徐々に荒々しく、乱れていく。まるで、自分の中で怒りを増幅させていくかのようだった。日誌の中から闇が溢れ出し、部屋の中が暗くなっていくように感じた。更に誠司はページをめくる。

『7月29日 緋村と宵深は愛し合っている。山陰に住む卑しい家の出のくせに、宵深に取り入り黒石家を乗っ取るつもりか、(けだもの)め。――今年の八月は『(さく)(つき)』だ。『大禍時』を間近にして、既に邪悪な気が噴出し、我々の周囲に立ち籠めているようだ。御神体に血を吸わせ、山々の荒神を鎮めねば』

 字は荒々しさを増していく。紙面から、怒りを超えた憎しみが伝わってくる。日誌は途中のページで終わっており、最後のページは短い言葉で終わっていた。

『8月4日 御神体に、獣の血を――』

「ここで手記は終わっている。この日は院長が言っていた、『大禍時』の日だったのか」

「……!」

 詩穂は後ろから何者かにずっと見つめられているような気配を感じていたが、今、間違いなく詩穂の背後に誰かがいる。しかも、すぐ手が届くほどまで近くに。夢の中で宵深に背後に寄り添われた時の恐怖が蘇り、詩穂は後ろを振り返ることができない。

「誠司君……!」

 詩穂はすぐそばにいる誠司の服の袖をきゅっと掴む。

 その時、二人の背後で何かが大きく動く気配がした。

 ドサドサドサドサ!

 二人が振り返る。しかし、周りを見回してもそこには誰もいない。どうやら詩穂が部屋の中を探すときに積み上げていた書籍が重みでバランスを崩し、自然に倒れてしまったようだ。詩穂の心臓の鼓動はまだ高鳴っていったが、ほーっと安堵する。誰かがいる気がしたのは、やはり気のせいだったのだろうか。誠司は特別何も感じていないようだった。

「緋村という医師は黒石宵深と愛し合っていた。だが、卑しい家の出である緋村を父親の黒石郷三郎は快く思っていなかった。憎しみや殺意さえ覚えていたようだな」

「ええ。『大禍時』の夜に何があったのかしら」

「他にも手がかりがあるかもしれない。まだ時間はあるから、探してみよう」

 誠司が言い、詩穂がうなずく。

 誠司と詩穂は黒石郷三郎の書斎を、手分けして調べる作業を再開する。詩穂が再び本棚の中の本を読み耽っていた時、ふと、開きっぱなしになっていた部屋のドアの前に、誰かがいるのに気付く。詩穂が気付くと、その誰かは廊下を階段の方に向かって歩いていった。それは血染めの白衣の女ではなく、中背の男のようだった。男は茶色のシャツに、ベージュのスボンを履いていた。

 詩穂が書斎の扉から顔を出し、男が歩いて行った方の廊下を見渡す。丁度、男は廊下突き当たりの階段を降りていく所だった。

「誰か、家の手入れをしている人がいたのかな……? 黒石先生が連絡していてくれたのかしら」

 屋敷の中にはあまり人が出入りしていたような形跡は無かったはずだが。何か話を聞けるかもしれない。詩穂は男を見失う前に、後を追って部屋を出る。誠司は部屋の中を探すのに夢中で気が付かない。

 詩穂が男を追って1階に降りると、玄関のドアが開いており、男は外に出て行った。詩穂も更に後を追い、玄関に出て辺りを見渡すと、男は庭の外れにある納屋の方に向かって歩いていた。

 納屋は3、4人が入る程の広さで、洋風の屋敷にはやや不似合いな和風木造の作りだった。中には雪掻きや庭の手入れ道具が収納されているようだった。床はなく地面と連続しており、踏み固められた土が露出している。

 詩穂が納屋の正面まで近づくと、納屋の扉も開いており、奥に男が立っていた。詩穂が更に近づき、声をかけようとした所で、驚きの声を上げた。

「あっ!」

 男は詩穂の目前でまるで靄のように薄くなって、消えてしまった。詩穂は納屋の中に走っていき、内部を見回す。ただの古めかしい物置で、中には誰もいない。詩穂が見た男は、一体何者だったのだろうか。

 ふと、詩穂が男が立っていた辺りの地面を見ると、何か小さな物が落ちている。詩穂が拾い上げてみると、それは勿忘(わすれな)(ぐさ)の花を象った、真鍮製の髪飾りだった。

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