藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程6 脾臓摘出

小説

黒石病院 玄関ホール

 志賀野と喫茶店で話をしてから更に2日間が過ぎた。この2日間は何故か誰も犠牲者が出ず、患者の搬送はスムーズに進行した。このように血染めの白衣の女が出現しない日があったのは初めてであり、凪のように静か過ぎて不気味なほどだった。

 その日、誠司は担当していた患者に付き添って、玄関ホールにいた。黒石病院の玄関ホールは1階と2階が吹き抜けになっていて広い空間になっている。玄関ホールも比較的新しく増設された箇所であり、立派なエントランスホールとなっていた。2階の廊下からは手摺り越しに1階と病院の正面入り口を見下ろせるような構造になっている。ホールの入り口から向かって右側にエスカレーターがあり、1階と2階の間を行き来できる。エスカレーターは人間が近づくと動き出すようにセンサーがついており、人間が近づかなければ止まったままだ。1階の向かって左側には総合受付や会計場があり、待合用の椅子が並んでいる。平時には受付や会計を待つ患者で待合用の椅子は満杯になっている。今は無人だが、1階には売店やATMもあり、中央に設置されたピアノでは定期的に演奏会も開かれる。

 玄関ホールから病院の奥に侵入するには自動ドアを通過する必要がある。同じ1階・2階にある外来診察室や検査室へは自動ドアの行き来は自由だが、セキュリティ強化のため病棟のある3階の方に行くためには職員用のセキュリティカードや面会証がなければ自動ドアは開かない。つまり、玄関ホールは1つの巨大な密閉空間となっていた。普段は人でごった返しているが、今は搬送中の患者や職員、警備中の警官しかおらず、普段の数分の一程の人数しかいなかった。

 誠司は担当していた患者と、その家族を送りだそうとしていた。草野というこの患者は92歳と超高齢だが、非常に元気な女性で、大腸癌の手術を見事に乗り越えた。術後はさすがになかなか起き上がることができず、足腰が弱って退院まで長引いてしまったが、今はすっかり元通りだ。日々の節制の賜物で認知症もなく、気のよい性格の患者だった。こういった高齢でも立派な患者は医師の側から見ても嬉しくなるものであり、誠司もつい贔屓してしまっていた。 

 草野は病院の出口までたどり着くと、誠司の方を振り返り、別れの挨拶を告げる。時刻は昼前頃で、外は雨上がりでじめじめと暑かったが、雲の間から太陽の光が差し込んでいた。病院の自動ドアが開くと同時に蝉の鳴き声がうるさく押し寄せてきた。

「先生、ほんとに世話になったね。これからも体に気をつけてね。こんな大変なことになっちゃったけど、早く仕事が終わって病院を出られるといいね」

 一連の事件のことを言っているらしい。草野は誠司の手を両手で握りしめ、本気で誠司のことを心配している。手術を受けた黒石病院で元気になるまで診てもらいたいと、早期の転院を拒んだのは草野自身だった。

「草野さんも、無事に帰れて本当によかった。いつまでもお元気で。お大事にしてください」

 誠司も、草野の心遣いに真摯に答える。

 奥磨市は寒冷地であるため、病院入り口の自動ドアは二重になっており、内側の自動ドアと外側の自動ドアとの間に数メートル四方のガラス張りの空間がある。外側のドアの手前で誠司は去っていく患者家族を見守っていた。病院前正面の駐車場に停めていた自家用車に乗り込み、車が見えなくなるまで見送る。

「本当に、いつまでもお元気で……」

 患者が無事に退院したことを見届けると、誠司は急ぎ仕事に戻る。まだまだ次の患者を送り出さなければならない。院内の方に戻っていく誠司の後ろで、外側の自動ドアが静かに閉まる。

 誠司は内側の自動ドアもくぐり、玄関ホールの中に入った、その時だった。

 ガチャーン!

 誠司は驚き、後ろを振り返った。内側の自動ドアが、信じられない程の勢いで閉められたようだった。まるで、誰かに強引にドアを閉められた時のように。

 ガチャン! ガチャン!

 病院入り口の他の自動ドアも次々と強引に閉められていく。中に居た人々が驚き、どよめきが起こる。

 ブツン!

 玄関ホールの灯りが全て消えた。小さな採光窓からの光と、病院正面入り口の自動ドアの方から差し込む光だけが残り、玄関ホールは真昼間とは思えない程暗い空間となった。

 そして、広い玄関ホールの中に狂ったような女の笑い声が響きわたった。いや、正確にはそれは音波の伝達ではなかったのかもしれないが、とにかくその場にいた全員の精神を引き裂いてしまうような、原始的な恐怖を掻き立てる声が響いていた。ホールの中にいた人間の視線が、空間の中央に集まる。すなわち、2階の廊下の中央部に、その女は立っていた。

 そんな、馬鹿な……!

 誠司は驚愕した。血に染まった白衣の女が一階にいる人間たちを見下ろし、両手を広げて笑っていた。生気のない真っ白な顔に、肩にかかるくらいの流れるような黒髪が被さっていた。死に装束のような形状をした白衣には返り血が火の粉のように鮮やかに浮かび上がっていた。女は氷の彫像のように美しい姿をしていたが、生きた人間ではないことは遠くからでも一目で分かった。

「うわあああああ!」

 二階で警備をしていた警官が恐怖に駆られ、女に向かって闇雲に発砲しまくる。しかし、実体のない女に銃弾が効く訳もなく、女は不思議そうな顔で警官の方を振り向く。そして、警官の方に、そっと右手を振りかざす。

「うわあああ……あぁっ!」

 次の瞬間、警官は幾重にも切り刻まれ、血液と臓物を辺りにまき散らした。警官が一瞬で切り刻まれ、弾ける様を見て、どよめいていた人々は声を失う。しかし、間もなく沈黙は阿鼻叫喚の悲鳴の嵐へと変わる。

 2階にいた人間は自動ドアからホールの外へ逃げようとするが、どのドアも固く閉ざされ、ぴくともしない。逃げ惑う人々は警官、病院職員、患者達と様々だ。抵抗して発砲する警官もいたが、やはり女には何の効果もなさない。

 女が右手を振りかざしながらくるくると舞うと、女の周囲に真っ赤な花が咲き乱れた。二階の廊下にいた十数人の人間は瞬く間に全滅してしまった。2階の廊下は血溜まりとなり、手摺りの隙間から1階へと血液がこぼれ落ちていく。

 1階にはまだ半数の人間が残っていた。女は止まったままのエスカレーターをゆっくりと歩いて降りてくる。エスカレーターを降りている間も右手を指揮者のように優雅に振るうと、その一振りごとに近くにいた人間が、ぱつんぱつんに緊満した水風船のように飛沫を上げて破裂していく。ただし、風船の中を満たしていたのは水ではなく、赤いドロドロとした液体だった。

 どうやら目には見えないが、女の右手から鋭い刃のような霊気が放たれ、その右手の先にある人体を八つ裂きにしているようだった。

 女はエスカレーターを降りると、血の沼になった病院の正面入り口前を通過して、左奥の総合受付の方へ人々を追いやっていく。どの人間も悲痛な叫び声を上げながら、切り刻まれていく。1階にいた人間達も次々と襲われ、なすすべもなく誠司はホールの隅に追い詰められていった。そしてとうとう誠司の他に若い女性の看護師1人を残すのみとなった。

 看護師も逃げ惑うが、床にこぼれていた血液で足を滑らせ、待合の椅子に腹部を強打する。咳き込んでうつぶせている彼女に容赦なく血染めの女が迫る。看護師は誠司の方に恐怖に満ちた顔を向け、助けを求めた。

「先生、たすけ……!」

 血染めの女が右手をかざすと、若い看護師も、誠司の目の前で切り刻まれ、細かい肉片となった。看護師の死体を特に感慨もなく見つめていた血染めの女は、やがて最後に残った誠司を標的として捉えた。

 血染めの女は、一歩一歩、誠司との距離を詰めてくる。誠司と目が合うと、女は残忍な笑みを浮かべた。誠司にできることがあるはずもなく、ただ自分に訪れる理不尽な死を待つだけだった。女の右手が、ゆっくりと誠司の方へ振り向けられる。死を覚悟し、誠司が目をつぶった、その時だった。

 誠司の身体がドスン、と激しく突き飛ばされた。

「ぐあああ!」

 誠司の身代わりとなって、血染めの女の右手の振り向く先に躍り出たのは、志賀野だった。志賀野の身体が次々と切り刻まれていく。突然飛び出してきた志賀野は女の矛先をわずかに外したのか、即死は免れたが、致命傷を負ったのは間違いなかった。

 病院の正面玄関の外で異変に気が付いた志賀野は、拳銃で強化ガラスの自動ドアを破って病院の中に飛び込み、誠司のもとに駆け付けたのだった。

「志賀野さん!」

 誠司は志賀野のもとに駆け寄る。死に行く志賀野を抱きかかえ、動揺して喚いている誠司を見て、血染めの女は愉快そうに笑い声をあげる。

 次は、あなたの番よ。

 泣き喚く誠司を見て満足した女は、お楽しみは後に残したとでも言うように誠司に一瞥をくれ、立ち去った。いつの間にか、女の姿は忽然と消えていた。

 志賀野の身体からはおびただしい量の血液が流れ出ている。誠司は志賀野の血液を顔に浴びながらも止血を試みる。聴診器や衣服など、帯状のものを使って四肢の駆血を試みるが、体幹部からも複数箇所出血しており、全てを止めることができない。医療資材を取りに行く時間すらなく、最終的に両手を使って出血部位を抑えるが、それでも出血を止められない。血液を介して、誠司の手に志賀野の熱い体温が伝わってくる。誠司は自分の無力さに打ちひしがれた。

「もう大丈夫だよ、ありがとな。いくらあんたが名医でも、これは助けらんないだろ」

「…………!」

 誠司はその言葉に言い返すことができない。悔しさに、身が焼き尽くされそうになる。

「なんで、赤の他人の僕のためなんかに……」

「市民の安全と平和を守るのが警察官の務めだ……。目の前の人間の命ひとつ守ることができないようじゃ、お話にならんだろ」

 その言葉が、そっくりそのまま誠司に突き刺さる。誠司は今、医師として目の前の命をひとつ、取りこぼしつつあった。

「なあ、どうせそんなに長い話にはならん。……手当てはいいから、俺の話に付き合ってくれ」

 志賀野は誠司に最後の言葉を託そうとしていた。

「俺の祖父の遺体は、あの旧・手術室の中で見つかったらしい。……今では、当時の捜査関係者の一部しか知らない話だ。親父は定年まで独自に捜査していたが、結局事件の真相に辿りつくような手がかりは得られなかった……」

 志賀野の身体から熱が失われ、言葉から力が失われていく。

「そして、俺はこのザマさ……。笑っちゃうだろ。志賀野は三代にわたって敗けたんだ。完敗だよ。……あの、血染めの白衣の女ってやつにな」

 志賀野は力なく笑う。

「なあ、あんたは俺達みたいに過ぎたことにこだわらないで、楽しく生きろよ。必ず生き抜いて……楽しく……」

 志賀野の心臓の鼓動が徐々に緩慢になり、そして、動きを止めた。

「志賀野さん……!」

 誠司は志賀野の遺体に覆いかぶさるようにうずくまっていた。

黒石病院 駐車場

 暫くして、事態を察知した警察や病院スタッフが玄関ホールに立ち入り、凄惨な現場の整理を始めた。

 死者33人、生存者1人。

 玄関ホールでの大量虐殺は、一連の事件の中で、最多数の犠牲者を出すこととなった。誠司は病院正面敷地内の駐車場で一通り警察の事情聴取を受けた。通常なら血染めの白衣の女の話など真に受けられるはずなどないのだが、状況が状況だけに誠司の証言は比較的すんなりと受け入れられた。

 病院内から志賀野の遺体も運び出される。捜査一課のエースであり、今回の事件の捜査を主導していた志賀野の死に警官達も動揺を隠せず、浮き足立っているようだった。

「志賀野さん! 志賀野さん! なんでこんなことに……!」

瀧田が殺された事件があった日に志賀野に付き従っていた警官の1人が志賀野の遺体にすがりつき、号泣していた。部下として、志賀野に心酔していたようだ。

 警察から開放され、誠司は病院敷地内の木陰の下で、縁石に腰掛けていた。外はまだジリジリと暑く、蝉の合唱がまるで他人事のように響き、現実感が湧いてこない。先ほど晴れやかな気持ちで草野を見送ったのが、遥か遠い昔のことのように感じられた。志賀野の遺体にすがりつく警官を呆然と眺めていた誠司に、詩穂が駆け寄る。

「誠司君、大丈夫だったの!? 怪我はない?」

「ああ、僕は大丈夫。怪我はない。……でも、僕の代わりに志賀野さんが……!」

 誠司は頭を抱え、黙り込んでしまった。怒りと悲しみが過ぎ去るのをじっと待つ。

 詩穂は誠司の脇に座り、何も言わずにそっと誠司の背中をさする。

 すぐに誠司の悲しみが癒えるわけがない。だが、誠司は詩穂に伝えなければならないことがある。やがて誠司はふらふらの足を踏ん張らせて立ち上がり、詩穂の方を向いた。

「噂は本当だった。血染めの白衣の女はいたんだ。女が手を振りかざすだけで、人間は一瞬でバラバラに切り刻まれてしまった」

「そんな……。そんなこと、本当にあり得るの……?」

 詩穂はとても信じられない様子だった。

「どんな女の人だったの?」

「歳は僕達と同じ位か、もしかしたら少し下に見えた。黒髪で、髪の長さもちょうど君と同じ位だったように思う。美しい顔立ちだったけど、その表情には身の毛のよだつような、おぞましさがあった。……ただ……」

「その話は本当かい、桐生君」

 誠司の後ろで、話を聞いていた者がいた。

 二人が声のした方を振り向くと、そこに居たのは黒石院長だった。いつも精力的にスタッフを牽引している院長が、今はひどく疲れており、年齢相応に見えた。

「そうか……。そうだったか……」

 院長がうつむき、独り言のように呟く。

「院長?」

 誠司が訝しむ。院長が顔を上げる。

「明日の晩、当直してくれるのは朱崎君だったね?」

「ええ、そうですけど……。何かありましたか」

「話があるんだ。明日の晩、私の部屋に来てくれないか。桐生君も一緒に」

「僕もですか? 問題はありませんが……」

「そうか。では院長室にいるから、時間が空いた時に来てくれ。君達の都合のよい時間で構わない」

 そう言って、院長は立ち去った。普段は逞しく、頼りがいのある大きな背中が、その時はいつもより小さく、痩せて見えた。

 誠司と誌穂は不思議そうに顔を見合わせる。一体、何の話があるのだろうか。

 次の日の夜は院長の言った通り、詩穂が当直を担当することとなっていた。院長と会った後は特別な事件が起こることもなく、残された患者達の夜の指示を一通り確認した後、誠司と共に院長室へ向かった。院長室は病院の最上階、13階の奥にあった。

院長室前

 2人は院長室の前に立ち、ドアをノックする。

「どうぞ」

「失礼します」

 誠司と詩穂が院長室の中に入る。部屋の向かって左側は一面本棚となっており、医学書や医学雑誌などで埋め尽くされている。正面には大きなデスクがあった。デスクの正面には応接用のテーブルと左右一組のソファが設置されていた。デスクやソファはいずれも仕立てがよく、質のよい木材で組み立てられていた。院長は向かって左側のソファに腰かけていた。

「座ってくれ」

 院長は反対側のソファに座るように促し、誠司と詩穂は言われるままに腰かけた。早速詩穂が口を開いた。

「先生、話って何ですか」

「……」

 院長は黙り込んでいる。これから話すことが、本当に誠司と詩穂に話してよいことなのか、逡巡しているように見えた。

「先生……?」

 詩穂が心配そうに院長の顔を覗き込む。やがて、院長は重い口を開いた。

「これから君達に話すことは、本当は話すべきではないことなのかもしれない。それに、その話の内容はこれから君達に大きな重荷としてのしかかってくることだろう」

 院長は苦渋に満ちた表情を浮かべている。誠司と詩穂は、これから話されることの重大さを察した。

「院長、この非常事態です。僕達はどんなことでも受け入れる準備ができています」

誠司が答えた。院長は深く、長い溜息をついた。そして、ゆっくりと話し始めた。

「桐生君、朱崎君……。私は、今回の事件の原因について心当たりがあるかもしれない」

 誠司と詩穂は息を呑んだ。

「血染めの白衣を着た女性が徘徊しているという報告を聞いた時点で、もしかしたらと思っていた。そして、昨日の誠司君の話を聞いて、私はますます確信を深めていった」

「先生、事件の原因って、一体何なんですか!?」

 詩穂が溜まりかねたように訊ねる。

「事件の真相を知るためには、黒石家と奥磨市の歴史をさかのぼらなければならん」

 院長は、黒石家の隠された秘密を語り始めた。

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