手術室
およそ5メートル四方、緑色の壁面の手術室で心拍モニターの音が一定のリズムを刻んでいる。部屋の中央、手術台の上で傷口がもの凄いスピードで縫い合わされ、まるで手術など行われなかったかのように修復されていく。部屋の片隅には切除されて間もない胃が濡れたガーゼに包まれたまま静かに手術の終了を待つ。
「――終了です。ありがとうございました」
手術の終了を告げ、女性外科医は器械を置いた。
その若き女性外科医、朱崎詩穂の華奢で細い手指から繰り出される手技は精密機械のように正確かつ、迅速だった。刻一刻と変化する術野の変化に対する状況判断の的確さ、解剖の立体的理解の深さ、そして手術の開始から終了まで完璧に展開されていく手術の工程。ありふれた言い方をすれば、彼女は手術の『天才』だった。
第1助手を務めていた黒石郷志は現役の外科医であり、黒石病院の院長でもある。既に定年を超えた年齢であり、自ら執刀は行わないものの、長年の経験に裏打ちされた知識と判断力を備えた老練の外科医だった。現在も第1助手として若い外科医の指導に当たっている。黒石院長が、手術を終えた詩穂をねぎらう。
「胃全摘を2時間弱で完遂、出血もほとんどない。この患者も、何事もなかったように良好な経過を辿り、退院することだろう。見事だよ、朱崎君。これからはもう、私が指導される側にまわることとしよう」
「恐れ入ります。黒石先生ってば、いつも大袈裟なんですから」
詩穂は努めて平静に振る舞っているが、微笑みには尊敬する医師に褒められる嬉しさが滲み出ている。明け透けに喜びを表現しないのは、黙っていても褒められることが多い彼女なりの処世術なのだろう。
「ふふ、大袈裟なものか」
後は頼むよ、と周囲のスタッフに告げると黒石は機嫌良く手術室を出ていった。
手術を終えた患者は全身麻酔から覚めるまで待った後、病室へ搬送していかなければならない。傍らで患者が覚醒するのを待つ間、詩穂に話しかける男性医師がいた。黒石院長と共に誌穂の助手に入っていた桐生誠司だ。誠司は詩穂と同い年だが、詩穂からは2年遅れており、医師4年目となる。
「相変わらず見事なお手並みです、朱崎先生」
誠司はあえて卑屈に言ってみせたが、心からの言葉だった。詩穂は笑いながら誠司の頭を叩く。
「あなたまでふざけないの」
誠司と詩穂は全身麻酔から目覚め、まだ夢うつつ状態にある患者を手術台から車輪付のベッドに乗せ換え、病室まで送っていった。手術部は3階、病室のある外科病棟は建物の3階にあった。患者に異変が起こっていないことを確認し、手術後の指示を看護師に伝えた後、誠司と詩穂は病室を出た。二人はディスポーザブルの紙製のマスクと帽子を脱ぎ捨て、薄手の水色の手術着の上に白衣を羽織った。
「次の手術まで少し時間があるわね。……ちょっと気分転換に行かない?」
黒石病院 屋上
彼女がそう誘う時、2人はいつも病院の屋上へ向かった。屋上は広場となっており、手摺りで囲まれている。暦の上では8月中旬で、大気は熱をはらんでいるが、屋上を吹き抜ける自然の風が涼しく肌をくすぐり、心地よい。詩穂は季節も天候の変化もない無機質な手術室を自分の居場所としながらも、本来は風を感じているのが好きなようだった。
病院の屋上から見える景色は曇りがかっていた。秋田県奥磨市は日本海側特有の気候で、年中曇っており、晴れ渡ることはめったにない。周囲を山々に囲まれた盆地であるが、遠くの山々は常に霞がっており、明瞭に輪郭を追えない。盆地の中の平地は概ね真平であり、道幅や土地も広く、典型的な車社会だ。
そんな真平な土地を車で走っていると、突如として現れる空高くそびえ立つ建物が、黒石病院だった。広大な敷地に13階建ての高さを擁し、建物全体はヨットの帆の形のような近代的なデザインをしている。私設の医療法人でありながら、内科・外科問わずほぼ全ての診療科を揃え、秋田県南の基幹病院となっていた。
詩穂は屋上の手摺り際に立つと、自販機で買った缶コーヒーを開け、一口啜る。どちらかと言うと年齢より幼く見られることが多い彼女に、ブラックコーヒーの黒い缶がやや不似合だった。時々吹き渡る風が彼女の艶やかな黒髪を撫でる。詩穂の髪は肩くらいの長さで切り揃えられていた。
「これだけ頑張って手術をしていても、私達が1日に助けられる患者さんはせいぜい2、3人が精一杯なのね」
誌穂は遠くの風景を見つめている。
「どうしたんだい、急に」
「ちょっと考えちゃってね。外科医になってから今日まで、何も考えずメスを握り続けてきたから」
詩穂は黒石病院で2年間の初期研修を終えた後、外科医として4年間勤めていた。若手として黒石院長を始めとした外科医師達の指導を受け、連日執刀に明け暮れている。突出した才能で、腕前は既に上級医の域に到達している。しかし、激務で今までの自分の日々を振り返る暇もなかったのだろう。毎日勤務時間いっぱいまで詰め込まれている定期の手術をこなすのは勿論のこと、重篤な緊急疾患で患者が搬送されてきて、深夜に叩き起こされて朝まで手術をすることも珍しくなかった。
「毎日毎日朝から晩まで手術してるのに、患者さんがいなくならないのはなんでだろうなって、思ってたの。でも、よくよく考えたら一回の手術で助けられるのはその患者さん一人だけなんだものね。効率のよい治療とはとても言えないわね」
詩穂は困り笑顔で、くすくすと笑っている。
「でも、今の医学じゃ手術をしなければ治せない患者がいるのは事実だ」
「そうね」
「外科医の仕事が、辛いのかい」
「全然。この仕事が好きだもの。どんどん出来なかったことが出来るようになっていくのが自分でも分かるし、自分の手で患者さんを助けてるんだなっていうのが実感できるの。……私の腕で、まだまだ沢山の患者さんを助けてみせる」
詩穂はそう言うと、自分の右手を大切そうに胸の前で抱きしめた。彼女は謙虚な人間であったが、自分に特別な才能があることは自覚していた。彼女にとって右手は大切な商売道具であると同時に、彼女自身の誇りそのものだった。
「ところで誠司君は、どうして外科医になることを選んだの?」
「別に、なんとなく」
「もしかして、私を追いかけてきたのかな?」
詩穂はにやけながら誠司の顔を覗き込む。
「そんなわけないだろ」
その通りだった。誠司と詩穂は幼馴染であり、両親も親友同士で家族ぐるみの付き合いを続けていた。年齢・学年も同じであったが、小学校から成績優秀だった詩穂はストレートで地元の国立大学医学部に合格し、医師免許を取得後、同じく地元にある黒石病院に就職した。一方、ごくごく平凡な学生であった誠司は死にもの狂いで勉強し、2年間の浪人生活を経て詩穂と同じ大学に合格し、黒石病院に就職したのであった。
誠司にとって詩穂は幼馴染でありながら、目標でもあった。才能豊かで、何事も卒なく華麗にこなす詩穂に言い寄る男性は絶えなかったが、何故か詩穂はその誰とも交際しなかった。そんな詩穂を追いかけているうちに、誠司はいつの間にか外科医として身を置くことになっていた。医学や外科学自体に特段興味があった訳ではなかったが、社会貢献ができていれば仕事は何でもいいくらいに考えていた。しかし、実際に外科医として働いているうちに、外科医という職業の魅力ややりがいに気がついたのも事実であった。
「……さ、そろそろ次の手術が始まっちゃうわ。次は誠司君が執刀だったわね。私が手取り足取り指導してあげるわね」
詩穂が右腕で力こぶを作ってみせ、笑っている。誠司も笑いながら、首を竦めてみせる。
「お手柔らかに」
二人は屋上の扉から病院内に戻る。扉をくぐる直前、誠司がふと後ろを振り返る。遠くの山々を覆い隠していた雲は徐々に濃さを増していき、奥磨市の街並みに暗い影を落としていた――。
手術部 廊下
誠司と詩穂は階段を降りていき、再び3階の手術部へと戻っていく。黒石病院は規模の拡大と共に取り壊しと建て増しが行われていった建物であるため、内部の構造は複雑だ。数十年来の古い建物部分と新しく近代的な建物部分が混在しており、医局周囲は古いままだったが、手術部や4階から13階まである入院病棟は後に建て増しされたものだ。2人は迷路のように曲がりくねった廊下を急ぎ足で歩いて行く。
誠司と詩穂が戻ってくるまでの間、1件目の胃全摘を終えた手術室の入れ替えが行われ、同じ部屋で誠司が担当する手術が行われる予定だった。手術室勤務の看護師達により、血液の付着したシーツなどが全て取り替えられ、新しく滅菌された手術器械が運び込まれる。手術と手術の間の入れ替えは早着替えのように慌ただしく行われ、看護師達がばたばたと走りまわっている。外科医である黒石院長が造り上げた病院の手術部は広く、廊下は50メートル程の奥行と、ベッド2台が余裕ですれ違える程の幅があった。
2人が手術部に戻る直前、忙しく手術器械の運び込みをしていた看護師が旧・手術室の扉の前の異変に気付く。看護師の悲鳴が広い手術部の廊下に響き渡った。
手術部に到着し、入り口の自動ドアをくぐった誠司と詩穂も異変に気付く。長い直線の廊下の奥、旧・手術室の前に人だかりができ、騒ぎになっていた。
「奥の方で何かあったのかな。ちょっと見てくる」
「私も行くわ」
誠司と詩穂は廊下の奥まで走っていき、人だかりの前に辿りついた。何事かと思い、更に手術部の職員が集まってくる。詩穂がその場にいた知り合いの看護師に声をかける。
「どうしたんですか?」
「私も分からないわ。でも、昔の手術室の扉の前で何かあったみたい」
「見に行ってみよう。ちょっと、すみません!」
誠司が先になって人の群れをかき分けて進むと、2人は息を飲んだ。
旧・手術室の固く閉ざされた扉の隙間から、大量のどす黒い液体が流れ出ている。それが出血してからある程度の時間が経過した血液であることは、その場にいた医療関係者達には一目瞭然であった。男性看護師の1人が声を上げる。
「扉を開けてみよう!」
男性2、3人がかりでその重い金属製の扉を開ける。いつも堅く閉ざされているはずの扉に鍵はかかっていなかった。錆びた金属がこすり合う音が不快で耳障りだった。
扉が開き、部屋の中に光が差し込んだ時、その場にいた全ての人間が凍りついた。
遥か昔に時の流れが止まり、古きもので溢れている旧・手術室の部屋の中で、ひと際新鮮な血液と、細切れになった人間の肉片が部屋中にばら撒かれていたからだった。
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