藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程5 大腸全摘

小説

7階 外科病棟

 誠司がいつも通り朝の7時半に出勤すると、既に詩穂が7階の外科の病棟で仕事を始めていた。詩穂は病棟の患者を回診し終わり、ナースステーションへ戻ってきた所のようだった。詩穂はいつも着ている紺色のスクラブの上に長袖の白衣を羽織っている。一般病棟の看護師はナース服を着ていることが多いが、医師や手術部配属の看護師、検査技師などはスクラブというカラフルな半袖の医療用白衣を着ることが多い。看護師のナース服も衛生面や安全面の観点からスカートやナース帽を着用している病院は現在ではほとんど無く、動きやすいように半袖長ズボンが普通だ。ちなみに誠司は黒色のスクラブの上に長袖の白衣を羽織っていることが多い。

「おはよう、誠司君。今日も忙しくなりそうだね」

「おはよう。大分疲れているようだけど、休まなくて大丈夫か」

「うん、私は大丈夫よ、ありがとう。それより……」

 詩穂は椅子に腰かけ患者のカルテを開き、視線を紙面に落としている。

「今日も誰か殺されちゃうのかな。血塗れの白衣の女に」

「どうかな。もう誰も殺されないといいんだけどな……」

 詩穂は平静に振る舞ってはいるが、普段は白く透き通っている瞼の皮膚にはクマが浮かび上がり、その顔には疲れを隠せない。無差別とも思われる怪事件に対する恐怖は、もちろん誠司と詩穂にも重くのしかかっていた。だが、彼らに休む暇などはなかった。一連の事件により、数ヵ月先まで予定されていた手術は全て中止になっていたが、代わりに医師達には新たな仕事が課されていた。それは、残されている入院患者の大移動、つまり搬送業務だった。

 自治体から黒石病院には業務禁止令が発令されていた。しかし、全部で40種にも及ぶ診療科と六百床もの病床数を擁する規模の病院が数日で活動を止められるはずがない。

 入院患者に最低限のケアを行いつつ、逃亡せずに残っている医療スタッフやボランティアが患者搬送を行っているが、圧倒的に人手が足りていない。

そもそも、搬送の受け入れ先がないという大問題に直面していた。黒石病院の患者数を収容できる規模の病院が秋田県内で大学病院を含めても2、3箇所しかなく、それらの病院も常日頃から満床に近い状態で運営しているからだ。

 寝たきりの患者を移動させるのも容易なことではない。意識不明の重症患者の場合、人工呼吸器、多数の点滴、心拍モニター、排尿カテーテルなどの数々の管が複雑に絡み合って患者に接続されている。それらを全て移動用のものにつなぎ変えながら、重いベッドごと運び出さないといけないのだ。

 警察も可能な限りの人出を駆り出し、近辺の道路を通行止めにして搬送経路を確保しているが、事前のシミュレーションも無しに一昼夜で終わるものではない。それ程までに、病院の患者と物資の移動というものは、難しい。

 転院したくても転院できない患者とその家族達は既にパニック状態だ。意識のある患者は諦めたように悲痛な面持ちで転院の時を待つか、恐怖と怒りで家族と共に病院職員に怒声を浴びせるかのどちらかだった。病院の正面入り口にはマスコミの記者が押し寄せ、警察関係者によってせき止められて、混沌とした様相を呈していた。

 その様な騒乱の最中、黒石院長はパニックに陥った患者・家族達を落ち着かせ、残った職員達を激励するために、病院中を駆けまわっていた。

「院長の黒石です。心中お察しします。現在当院では周囲の病院・警察・消防と連携を取り、搬送の手続きを進めております。順次患者様を搬送していきますので、今暫くお待ちください」

「この病院から逃げ出したくなる気持ちは分かる。しかし、残された患者さん達のため、医療者として何とか君たちの力を貸してほしい」

 怒れる患者・家族達には可能な限り速やかに搬送の準備を進めていることを院長自ら伝えてまわった。病院を逃げても犠牲になっている職員がいることを知り、逃げても仕方ないと嫌々病院に残りながら、まるで自身も幽霊のようになって虚ろに働いている職員達には力強く叱咤激励してまわった。警察とも連携をとり、立案した搬送計画を実行に移していた。だが、搬送が終わる目途は立たない。

「退院できる元気のある患者はこちらから言うまでもなく皆退院していったよ。だが、退院する元気のない患者の受け入れ先を探し、搬送するのにどんなに急いだって1ヵ月はかかる。それまでこの病院は稼働し続けるしかないんだ」

 黒石院長は病院の廊下ですれ違った誠司と詩穂に現状を漏らす。黒石院長は手術室の外ではいつもYシャツにネクタイ、黒のスラックスの上に長袖の白衣を羽織っていた。髪は一律シルバーであったが、豊かで艶のある白髪を蓄え、見る者に若々しさを感じさせた。

「だが、恐怖で逃げ出したり、仕事が手につかないスタッフが多い中、君達は本当によくやってくれている。頼りにしているよ」

 誠司と詩穂にも、もちろん死への恐怖がない訳ではなかった。しかし、黒石院長の存在が、誠司達の医師としての自覚と誇りを呼び起こし、病院に踏みとどまらせていた。眼前の患者達を救うべく、ただがむしゃらに働くしかなかった。

 これだけのパニック状態の中での搬送であった。途中で事故が起こったり、急に容体が悪化する患者がいたりするのは当然であった。

 最初の事件発生から2週間が過ぎようとしていた。連日惨殺死体が発見され、犠牲者の数は減るどころか日々増えていく一方だったが、黒石院長の必死の呼びかけもあり、患者が怒りを露わにしたり、職員が弱音を吐くことは表立たなくなってきていた。

7階病棟 廊下

 その日、誠司は患者の搬送に付き添い、病棟内の廊下を移動していた。4階から12階は入院用の病棟となっている。中央のエレベーターホールを挟んで東と西に1つずつ大きなナースステーションがあり、それぞれのナースステーションを囲むように病室が並べられている。全体としては通路が『8』の字になっている形だ。

 患者はストレッチャーに寝そべったまま移動し、看護師が患者の進行方向、つまり足側でストレッチャーを引っ張っており、患者の頭側では誠司が患者の容体が急変しないか監視しながらストレッチャーを押している。誠司達はエレベーターホールに向かって移動していた。その日は平日の昼下がりで、窓からは外の光が差し込んでいた。

 誠司の後方で別の患者を車椅子で移送していた看護師が、突然悲鳴を上げる。悲鳴を聞き、誠司が駆けつける。

「どうしたんですか!?」

畑中(はたなか)さんが、突然息が苦しいって言って倒れて……」

 傍らに60から70歳程に見える男性が倒れ、車いすから崩れ落ちている。畑中というのはこの患者の名前のようだった。誠司が患者を仰向けにしてみると、かろうじて呼吸はできているが、顔面が蒼白になっており、チアノーゼの状態になっていた。首が大きく紫色に腫れ上がり、気道が閉塞されているようだった。同じ外科病棟に入院していた患者のはずだが、誠司は消化器外科の入院患者を中心に受け持っており、見たことのない患者だった。誠司が付き添っていた看護師に問いかける。

「この患者さんは、何で入院していた方ですか!?」

「甲状腺癌で、抗癌剤治療をしていた方です!」

「甲状腺癌……。抗癌剤……!」

 誠司が患者の急変の原因に思い当たる。騒ぎを聞きつけ、詩穂も駆け寄ってくる。

「誠司君! 何かあったの!?」

「頸動脈出血だ! 甲状腺癌で化学療法をしていたらしい! 多分、未分化癌だ!」

 甲状腺は頸部の前面、気管前面に貼り付いている内分泌器官だ。ごく一部の甲状腺癌の中には非常に進行が速いものがある。進行が速いため、日や週の単位で甲状腺の被膜を食い破り、近傍にある気管や頸動脈に浸潤する。頸動脈に浸潤した甲状腺癌に抗癌剤が効き壊死を起こすと、脆くなった壊死部から穴が開き大出血を起こすことがある。

「血腫で気道が閉塞されてる……!」

 誠司は事態の深刻さに戦慄を覚える。大出血により首の前面に血の塊ができ、気道が圧迫され、閉塞している。つまり、物理的閉塞で呼吸が出来なくなっているのだ。直ちに頸部を切開し、血腫を除去して気道を確保しなければならない。

「主治医の先生を呼んできて!」

 集まってきた看護師が叫ぶ。

「待ってる余裕はないわ! ここで開ける!」

 詩穂はそう言うと、周囲のスタッフに手術器具と吸引管を持ってくるように指示を出し、患者と共にナースステーションに隣接した処置室へなだれ込む。誠司と詩穂はスクラブの上に来ていた白衣を脱ぎ捨て、最低限のマスク、ゴム手袋、ビニールエプロンだけ身に付ける。

 時は一刻を争う。誠司が消毒液の瓶の蓋を開けると、患者の首にばしゃばしゃと振りかける。切開予定部位に詩穂が速やかに局所麻酔を行う。患者は既に意識を消失していた。

 詩穂がメスで患者の皮膚を一瞬で切開すると、常識を超えたスピードで頸部の膜と筋肉が紐解かれていく。助手をする誠司はいっぱいいっぱいになりながらも、かろうじて詩穂のスピードについていく。詩穂も誠司も一般外科医として、甲状腺手術の経験は積んでいた。

「詩穂、できそうか!?」

「腫瘍の浸潤があって、正常な構築がかなり崩れてるけど、何とか……!」

 やがて血腫に到達すると、詩穂は処置室の壁の配管に接続した吸引管で固まった血の塊を吸引していく。血腫の吸引に伴い、徐々に気道の閉塞が解除されていく。心臓の拍動と共に噴き出す頸動脈からの新鮮な出血で詩穂も誠司も血塗れになっているが、形振り構ってなどいられない。

 詩穂が出血点を特定し、周囲の組織ごと頸動脈をペアン鉗子(組織を挟み込むための鋏型の手術器具)で挟み込み、応急的に止血を行う。緊急の止血処置を完遂したのだ。処置を終えた時、患者は呼吸をしていた。

 処置を終えた所で、主治医である甲状腺外科医が到着する。麻酔科医も呼ばれ、患者は手術室へストレッチャーで運び込まれた。全身麻酔下で完全止血のための手術が行われる。

 患者が3階の手術室まで運び込まれるのを見届け、やっと誠司と詩穂は安堵する。

「あの患者さん、無事に長生きしてくれると良いわね……」

 詩穂の言葉には悲しみが滲んでいる。甲状腺未分化癌という癌は進行が異常に早く、無治療だと週から月の単位で命が奪われてしまう。一時的に抗癌剤が奏功したとしても、短期予後は非常に悪い、死の病気だ。

「僕たちはできることをやった。後は主治医の先生達を信じよう」

 誠司は詩穂を励まし、自分達の仕事に戻るように促す。

「うん……」

 詩穂と誠司は名残りを惜しむようにその場を立ち去った。まずは血塗れになった自分達の身を清めるべく、手術部に隣接した更衣室へ向かわなければならなかった。更衣室の中にはシャワーも設置されており、顔や手にこびりついた血液を洗い流すことができた。

 それから間もなくして、詩穂の願いは思わぬ形で、しかも余りにも呆気なく、理不尽に踏みにじられることとなった。翌日の朝、誠司と詩穂が救命した患者は変わり果てた姿で発見されたのだった。今までの事件の被害者同様、全身を切り刻まれ、病室のベッドを真っ赤な血で染め上げていた。夜勤看護師の巡回の合間に患者は殺害され、その直前に病棟を血染めの白衣の女が歩いていたという目撃証言があった。

 自分達が救命した患者が亡くなったことを聞き、誠司と詩穂は途方もない無力感に襲われた。悲しみに暮れるなか、やっとの思いでその日一日の勤務をやり遂げる。

 日中は病院職員全員がフル稼働で働き、患者の搬送業務は夕方6時で一旦締められる。職員の消耗が激しく、休養が必要だったからだ。また、夜間の搬送は途中での事故も増えるであろうことを考慮された。

黒石病院前 大通り

 勤務を終え、言葉少なに帰宅の途についていた誠司と詩穂に声をかける者がいた。ちょうど病院の敷地を出て、正面の大通りに出た所だった。

「おい、あんた達」

 後ろからの声に誠司と詩穂が振り返る。煙草をふかした長身の男、刑事の志賀野だった。空調の効いた病院内ではいつもトレンチコートを羽織っているが、病院の外では薄手の灰色のシャツの袖をまくっていた。

「かなり堪えてるみたいだな。疲れてるとは思うが、ちょっと俺に付き合わないか。大したもんじゃないが、おごってやるよ。仕事じゃないから、安心してくれ」

 2人は志賀野に連れられ、歩いて五分程の距離にある近くの喫茶店に行く。『Walnut』という木製の看板がかかった、個人経営の店のようだった。店内は狭く、テーブルが数個とカウンター席しかなかったが、間接照明を中心として落ち着いた雰囲気を醸し出している。BGMとして、かすかにジャズが流れている。ウェイトレスに案内されて席につき、飲み物を頼む。志賀野と誠司はブレンドコーヒー、詩穂はレモンティーを頼んだ。

 誠司達が志賀野とまともに話すのは、瀧田が死体で発見された日、面談室で事情聴取を受けた時以来だった。誠司の志賀野の印象は、外見は不良中年のようだが、内面は真実を厳しく追及する敏腕刑事としての風格があり、とても近づきがたい人物であるように思われていた。しかし、こうして喫茶店のテーブルを挟んで向かい合ってみると、思っていたよりもずっと温和で柔らかな印象で、誠司達への気遣いを忘れなかった。注文した飲み物が運ばれた頃に、志賀野が話し出す。

「昨日のあんた達の仕事、見事だったな。俺に医者の腕の良し悪しは分からないが、あんた達の手捌きを見て、美しいと思った。熟練した技には美しさが宿る。若いのに大したもんだ」

 頸動脈出血で患者が倒れた時の、誠司と詩穂の救命処置のことを言っているらしい。たまたま志賀野はエレベーターホールの付近で搬送の指揮を行っており、事の一部始終を見ていたとのことだった。詩穂が答える。

「指導医の先生方に日頃から厳しく指導していただいているおかげです。それに、あの患者さんは結局救えませんでした……」

「患者を救えなかったのは、あんた達のせいじゃない。むしろ責任を問われるとすれば、俺達警察の責任だ」

 志賀野は宙を見上げながら、煙草をくゆらせている。何かを考えているようだった。

「……捜査の内容を一般人に話すのは御法度だが、まあいい。どうせ俺はこの事件の犯人は特定の個人じゃないと思っている。というより、人間にこの犯行は無理だろう」

 誠司と詩穂は驚き、志賀野を見る。

「人間の犯行じゃないって、どういうことですか」

 誠司が訊ねる。

「遺体の切断面が鋭利過ぎる。刀で切り刻んだって、ああはならない。工業機械で切ったような切り口だが、犯行はところ構わず普通の病室でも行われている。しかも、遠隔地でほぼ同一時刻に犯行が行われていることもあった。犯行のペースも異常だよ」

 志賀野はブレンドコーヒーを一口啜る。

「……血染めの白衣の女の噂は、当然あんた達も知ってるな?」

 誠司と詩穂が、同時にうなずく。

「馬鹿げてると思うかもしれんが、俺はその噂を信じている。しかも真剣に、だ」

 志賀野に二人をからかっている様子はない。

「事件の異常性はもちろんだが、何人もの目撃例があるんだ。誰かの気のせいでは済まされないだろう。……何か他に、血染めの白衣の女に関係するような噂はなかったのか?」

 この質問には、詩穂が答える。

「白衣を着た女が病院の中を彷徨っているという噂は聞いたことがあります。それも、ずっと以前からその噂はあったみたいです。でも、血染めの白衣の女というのは聞いたことがないし、何か悪さをしたということも聞いたことがありません」

「なるほど。幽霊まがいの噂は元々あったということか……」

 志賀野は自分の顎に手を当てて、再び考え込む。

「俺があんた達に声をかけたのは、血染めの女について聞きたかったからだが、もう1つ理由がある」

「もう1つの理由?」

 詩穂が首を傾げる。

「確かに事件の被害者は、清掃員まで含めた病院職員、患者、その家族と多岐にわたっているが、犠牲者の大半は手術部を出入りしていた人間だ。全く関係ない被害者もいるがね。普段から手術室を出入りしているあんた達なら何か知っているんじゃないかと思ってな」

「何か知っているんじゃないかって言われても……。誠司君、何か心当たりある?」

 誠司も暫く考え込んでいたが、1つだけ心に引っかかっていることがあった。そして、その考えを呟いた。

「……旧・手術室」

 最初の被害者、瀧田が惨殺された場所だ。志賀野がうなずく。

「そう、そこが全ての事件の始まりだった。旧・手術室を爆心地として、周辺の場所や手術部の関係者達に急速に被害が広がっていった」

 志賀野は吸い終わった煙草の吸殻を灰皿に押し付け、次の1本に火を付ける。

「俺も旧・手術室に何か重要な手がかりがあるんじゃないかと睨んでいる。ただ、患者の護送や、入院診療で使う部署の片づけが優先されて、鑑識の捜査は一向に進まん。旧・手術室について何か知っていることはないか?」

 今度は詩穂が答える。

「旧・手術室は私達が就職し始めてから、1度も開いている所を見たことがありませんでした。今の手術部が増設されてからも、ほとんどずっと鍵が閉められていたみたいです。私達も今回の事件で、初めて部屋の中身を、……見ました」

 詩穂は瀧田の殺害現場を思い出してしまった様だった。顔がみるみる蒼ざめ、うつむいてしまった。

「思い出させてしまってすまなかった」

 志賀野は煙草を吸いながら、詩穂の気分が落ち着くまで時間を置く。

「……普段はずっと閉めきられていて、手術部を出入りする人間も誰も中身を知らなかったということだな。だが、ひとつだけ、医学知識の無い俺でも、明らかにあの場にそぐわないと分かるものがあった」

「あの場にそぐわないもの?」

 誠司が訊ねる。

「部屋中被害者の血液や臓器に塗れて分かりづらかったが、古めかしい樹の丸太が手術台の上に転がっていた。ひと抱えくらいの大きさの、何に使うのかも分からないような代物だったが、ただの樹の丸太とは思えない異様な存在感があった。……それに心当たりは?」

 誠司と詩穂は揃って首を振る。誠司達はそのような樹の丸太は存在さえも知らなかったことを伝える。志賀野が残念そうに煙草の煙を吐く。

「謎の樹の丸太についても、何も分からずか。この分だと、院長にでも問い詰めないとろくな情報は得られなさそうだな」

 あの公正で、誠実な院長に隠し事があるとは、誠司と詩穂にはとても思えなかった。

「現場で見つかった唯一事件の手掛かりとなりそうな証拠は、死ぬ瞬間、被害者が右手で古い型のメスを握っていた形跡があるということだけた。ご丁寧にメスまでスパッと切断されていたが、握っていたメスの取っ手は旧・手術室にある他のどのメスとも型が違っていた。自分の身を守るために、その場にあったメスを咄嗟に握っただけかもしれないがな」

「瀧田先生は亡くなる瞬間、古い型のメスを握っていた……」

 誠司は志賀野の言葉を繰り返すように、呟いた。

「相次ぐ事件の処理で、現場は遺体が回収されたこと以外はほぼ保存されたままだ。なるべく早いうちに、鑑識の捜査を再開したい所だ」

 志賀野が再び吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。

「さて、疲れてる所、留めてしまってすまなかった。明日も忙しくなるだろう。早く帰って休むことだ」

「……志賀野さん、帰る前にひとつだけ聞いてもいいですか?」

「何だ?」

 誠司が疑問に思っていたことを口にする。

「どうして、事件の関係者であるとはいえ、僕達にここまで捜査の内容を話してくださったんですか?」

「この事件を解決するために、藁をもすがりたい気持ちだからさ。この事件は、恐らく警察の力だけでは解決できん。それに、俺にはこの事件をどうしても解決したい因縁がある」

「因縁?」

「五十年前、今の新しい病院が建つより遥かに昔のことだ。旧・黒石病院の内外で今回の事件と同様に何人かの人間が全身を切り刻まれて殺害される事件があった」

 誠司と詩穂が、初めて聞く事実に驚く。

「当時の捜査関係者と、秋田県警のごく一部の人間しか知らないことさ。今でこそ大分開発が進んだが、この辺一帯は未開の地、つまりとんでもない田舎だった。地方警察の力なんてたかが知れてるし、何より当時は『お医者様は絶対』だった。事件は近隣住民の反対にあって揉み消されちまったが、その事件の捜査を主導していたのが、俺の祖父だった」

「捜査の結果、何か分かったんですか?」

 詩穂が思わず訊ねる。

「いや、祖父は捜査の途中で不審死を遂げた。……事件は時間の経過と共に自然に終息したようだが、真相は全て闇のままだ」

 誠司と詩穂は驚きで開いた口が塞がらない。

「俺の父も警察官で、独自に捜査を続けていたようだが、事件の真相については何も分からなかったようだ。そんな不甲斐ない父を見て、俺は極力その件には関わらないようにしていたんだが、目の前で今回の事件が起こってしまった。これを因縁と言わないで何と言うんだ?」

 志賀野は首を振り、静かに自嘲する。そして、誠司と詩穂を順に見つめる。

「黒石病院には何か裏がある。若い才能を散らせることはない。あんた達も患者の搬送が終わったら、一刻も早く黒石病院から離れることだ。……もっとも、黒石病院は今回の一連の事件で、間違いなく潰れるだろうがな」

 志賀野はそう言ってテーブルの端に置いてあった伝票を手に取ると、2人の方を一度も振り返らずにスタスタと立ち去ってしまった。

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