○症例1 32歳 女性
瀧田が死亡する事件があった日の夜、看護師の渡辺は夜勤に当たっていた。渡辺は今年の4月に手術室勤務から一般病棟へ異動となったばかりであったが、協調を重んじる性格で、同僚達からの信頼も篤かった。しかし、臆病な性格で夜の病院は正直苦手であった。1階の救急外来から要請を受け、入院病棟から物資を持って行った後、配属されている8階に戻る途中だった。渡辺は1階からエレベーターに乗り込んだ。病院の廊下は灯りが消されていて、暗かった。
不気味な事件のあった日に独りでエレベーターに乗り込むのは心細かった。病院中のスタッフが浮き足だっていたが、秋田県南の基幹病院として救急外来を閉鎖することはできず、夜間も通常通り運営しているとのことだった。
エレベーターの扉から入って奥の壁には手摺りが付けられており、手摺りより上の部分は一面、鏡になっている。夜の病院で鏡を覗き込むだけでも不気味なのに、エレベーターの中で独りなのだから、尚更だ。渡辺は極力鏡の方に背中を向けて、見ないようにした。早く8階の仲間達のもとに戻りたいと、渡辺は思っていた。
エレベーターの扉が静かに閉じる。低い機械音と共にエレベーターは動きだし、渡辺の身体に下向きの加速度が緩やかにかかる。しかし、下向きの加速度はすぐに上向きへと変わる。渡辺が階数表示を見上げると、「3」で止まっている。エレベーターの扉が開く。
しかし、エレベーターの外には誰もいない。渡辺はエレベーターの外に顔を出し、辺りを見回してみたが、暗がりの廊下が続いているばかりだ。
そういえば、ここは手術部のある3階だ――。
急に気味が悪くなった渡辺はエレベーターの扉が閉まるまで、何度も「閉」のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まるまでが途方もなく長く感じられた。扉が閉じ、エレベーターが再び動き出す。
渡辺は再びエレベーターの中で独りになった。すぐに異変に気付いた。
誰か、乗っている――。
誰もいないはずのエレベーターに、自分以外の誰かが乗っている気配がした。背後から、刺すような視線を感じた。渡辺は恐怖にとらわれ、身の毛立つのを感じたが、おそるおそる背後を振り返ってみる。エレベーターの中にはやはり誰もいない。しかし、鏡の中を覗いてみた時だった。蒼ざめた顔の自分の背後に、血染めの白衣を着た女が立っていた。
「きゃあああああああああ!」
数十分後、戻ってこない仲間を心配した同僚の看護師が、エレベーターの中で変わり果てた姿となった渡辺を発見することになる。渡辺も瀧田と同じ様に、細かい肉片になるまで幾重にも切り刻まれていた。エレベーターの中は、返り血で天井まで真っ赤になっていた。
○症例2 46歳 男性、24歳 女性
整形外科医の村木と、看護師の成瀬は数年前から不倫関係にあった。村木には妻と子供2人がいた。人生経験豊富な村木にとって、社会に出たばかりで、大人の世界を知らない成瀬をたぶらかすのは簡単だった。成瀬は成瀬で、不倫愛を運命の恋と思い込み、夢中になっていた。相手が既婚者であるという障害が、若い彼女を燃え上がらせていた。
瀧田が死んだ次の日の夜、2人は病院近くにあるラブホテルの個室内にいた。既に情事を終えた2人は裸のままベッドの中で会話をしていた。ひとしきり甘いピロートークを繰り広げた後、話は旧・手術室で起きた事件の噂に移る。
「ねぇ、瀧田先生が誰かに殺されたってホントなの?」
「ああ、本当みたいだよ。昨日から瀧田先生を見かけてないし」
「やだ、こわーい。8階の看護師さんもエレベーターの中でバラバラになって殺されてたんでしょ?」
「そうみたいだな」
「ね、先生。こんな病院さっさと辞めて、2人でどっか遠くの病院に行きましょ。そしたら奥さんを気にせずに私毎日先生の家に泊まりに行けるし」
「ああ、そうだね」
村木は適当に返事をした。
「じゃあ、約束ね。先生」
成瀬は機嫌よく言うと、ベッドを出て裸のままシャワー室へ行った。
村木は頭で腕を組んだままベッドに寝そべり、考えていた。冗談ではない。不倫相手を自宅に泊めるなど、不倫の証拠を残すようなものだ。成瀬との不倫は遊びに過ぎない。成瀬はどんどんあつかましくなってきており、村木のプライベートに踏み込んで来ようとしてくる。そろそろ成瀬との関係も切り上げ時かもしれない。村木はそう考えていた。
シャワー室に、シャワーの水滴が弾ける音が響いている。成瀬は鼻歌を歌いながらシャワーで汗や体液を洗い流す。避妊具にはいつも村木の目を盗んで細かい針穴を開けていた。妊娠したら公にするつもりだった。村木は必ず私のモノにする。たとえ捨てられるようなことがあったとしても、村木一人だけを幸せにさせるつもりなど毛頭なかった。
突然、シャワー室の扉が開き、そして閉められる。いつもの通り、村木がふざけて入ってきたのだと思った。成瀬もふざけて、身体を色っぽくくねらせて猫撫で声をあげる。
「もう、先生ったらまた覗きなの――?」
しかし、シャワー室に入ってきたのは村木ではなかった。
「おごっ!」
ガタン! ゴトン!
成瀬は男のようなうめき声をあげて絶命し、数個の肉の塊が落下する音が狭い空間の中で響いた。半透明のシャワー室の扉が血混じりの水滴でピンク色に淡く染まる。再び、シャワーの水滴が弾ける音だけが単調に響く。
やがて、静かにシャワー室のドアが開き、中から血染めの白衣の女が出てくる。血染めの女は悠々と部屋の中を歩いているが、村木は驚かない。
何故なら、村木は既にベッドの上で首を掻き切られて事切れていたからだった。
○症例3 54歳 男性
呼吸器外科医の武井は、黒石病院を辞め、故郷の新潟にある実家に帰ってきていた。次々と病院職員が殺される事件が起こり、急遽退職する人間は後を絶たなかったが、武井は誰よりも早く退職願を出し、病院を離れていた。武井が主治医として診ていた患者はまだ沢山入院していた。それらの患者のことが全く気にかからない訳ではなかったが、命あっての物種だ。担当患者は全て残った医師に押し付けてきた。
赤の他人のために命を張るなど、馬鹿げている――。早く逃げた者勝ちだ。
武井は夕食を終え、自室に戻っていた。机の上のパソコンで新潟市内の病院の求人情報を探し、じっくり品定めをする。どうせ、黒石病院で忙殺される日々に嫌気がさしていたのだ。楽で給料のよい病院などいくらでもある。適当に外来で年寄りをあしらって、高給でもいただくこととするか。そんな風に武井は、次の職場探しにいそしんでいた。
求人情報に夢中になっていた武井は、全く気付いていなかった。机の端に腰掛け、パソコンにかぶりついている武井を楽しげに眺めている女がいることに。
パソコンの電源が「ブツン」という音と共に切れ、初めて武井は血染めの白衣の女の存在に気付く。
「うわあ!」
武井は椅子から転げ落ち、仰向けのまま後ろに這っていく。
「お、お前は誰だ……。こここ、ここは俺の部屋だぞ!」
血染めの女は音もなく机を降りると、1歩ずつ武井の方に歩み寄っていく。怯えきった武井を見て、女は嘲るような微笑を浮かべる。
武井は本能的に、この女が怪異の元凶であることを悟る。
「やめてくれ!俺はもう病院を辞めたんだ――」
言葉を言い終えぬうちに、武井の首は切断されていた。
○症例4 42歳 女性、 ○症例5 73歳 男性、 ○症例6 ……
最初の犠牲者が出てわずか1週間余りで十数人もの死者が出た。皆、同様に全身を鋭利な刃物で切り刻まれたような傷跡が残されていた。殺害される対象は医師を始め、看護師・検査技師と職種を問わず、患者どころか、見舞いにきただけの家族にまで被害者が出ていた。病院内で起こる事件が大半だったが、病院の中だけに留まらず、事態を恐れて遠方へ逃げた職員までも犠牲になることがあるようだった。
そして、最初の事件が起こった頃から病院内では不思議な証言が増え始めていた。目撃者の証言によれば、血塗れの白衣の女が、院内をさまよっているというのだ。血塗れの白衣の女は、院内のあらゆる場所で目撃されており、特に殺人事件の起こる直前や、現場付近で目撃されることが多かった。
やがて、病院内ではある噂が広まるようになった。血塗れの白衣を着た女性の霊が、生きた人間を切り刻んで殺してまわっているのだと。
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