藤村 樹 ブログ限定小説『旧・手術室の扉を開けてはいけない』工程1 開腹

小説

医局

 瀧田(たきた)は何をするということもなく、深夜の医局でテレビを見ていた。壁にかけられた時計を見ると、時刻は午前1時を過ぎた頃であった。

「さて、そろそろまわるか」

 その病院では、当直医が医局のある3階の戸締りをする決まりとなっていた。夜間に不審者が侵入し、盗難が出ることを防ぐためだ。

 医局は病院に勤務する医師達の詰め所だ。古い医局の中には限られた空間に数十人分ものデスクやロッカーが、所狭しと並べられている。医学書が整然と並べられた片付いたデスクから、医学と関係ない漫画雑誌や小物が騒然と積み上げられているデスク、趣味のゴルフやサーフィンに関連する書籍が並べられたデスクと様々で、机の様子からその持ち主の人となりが浮かび上がってくる。医局の入り口から入ってすぐの所には大きめのリビングテーブルを囲んでソファが並べてあり、医師達がテレビを見たり、くつろいだりできるようになっている。瀧田も、医局のソファで伸び伸びとくつろぎながら、テレビを見て当直の時間を潰していた。医局には冷蔵庫や簡易な台所、コーヒーメーカーなども備わっていた。

 瀧田は億劫そうに立ち上がると、鍵を持って医局を出た。深夜の病院の廊下は暗闇に包まれており、医局のドアから漏れるわずかな光と、右手に持つ懐中電灯の灯りだけを頼りに瀧田は廊下を歩いた。新月の夜であり、窓の外はわずかな光さえも吸い込み、完全なる暗闇であった。瀧田は資料室、会議室、応接室と次々と施錠をしてまわっていく。ガチャガチャ、ガチャンと古めかしい鍵を閉める音が誰もいない廊下に響き渡る。

 最後に医局の灯りを消し、鍵を閉めようとしたその時だった。瀧田のすぐ背後を音もなく歩く人の気配がした。

 瀧田がすぐに背後を振り返ると、そこには誰もいない。そして、遥か遠くの廊下の角を、白い服を着た女性が曲がるのを見た。

 瀧田は壮年の外科医だった。医師になって20年近く経つが、病院で幽霊を見た経験などはなかった。

 確かに、その病院には昔から白衣をまとった女性の霊が院内を彷徨っている、という噂があることを瀧田は知っていた。しかし、実際にその女性を目のあたりにするのは初めてだった。

 まさか、幽霊なんているはずがない――。

 瀧田は何者かに突き動かされたかのように、白衣の女を追って歩き出していた。

 避難口誘導灯の緑色や、殺菌灯の青色で妖しく彩られた廊下を、女性と滝田は進んでいく。滝田は女性に追いつこうと早足になるが、何故か角を曲がると目標は遥か先を音もなく歩いていた。そうして二人は同じ三階にある手術部の中へと進入していく。

 すりガラスで作られた手術部の自動ドアがわずかにきしみながら開き、女性は手術部の奥の闇に消えていった。手術部には直線の廊下に左右六部屋、計12部屋の手術室が並んでおり、各々アルファベットでAからLの文字が割り振られていた。しかし、それらの手術室は後に建て増しされ、新しく作られたものである。

 手術部の廊下の奥に旧・手術室の扉があった。

 滝田は10年以上その病院に勤務していたが、1室だけ残されていたその旧・手術室は常に堅く閉ざされており、その扉が開くのは一度も見たことがなかった。

女は手術部の廊下の奥まで進んでいったはずだが、見失ってしまった。瀧田は直感的に、女は旧・手術室の中にいると感じた。扉は、両開きの引き戸になっていた。瀧田が扉に両手をかけ、力を込めると、閉ざされているはずの鉄の扉が錆びついた音を響かせながら開いていく。不思議と扉の重さは感じなかった。滝田は己の脈拍が早まっていくのを感じた。

 瀧田は部屋の中に入り、懐中電灯で辺りを照らす。部屋中に錆びついた手術器具が散乱していた。床には一面に赤い錆が沈着しており、まるで血溜まりができているかのようだった。

 やがて瀧田は、部屋の中心に古い手術台があることに気付く。手術台の上にはひと抱え分、ちょうど赤子ほどの大きさの何かが置いてあり、懐中電灯の光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていた。

 近づいてみると、それはとても古い、樹木の丸太だった。丸太の中央には(うろ)があり、中には底のない虚空が広がっていた。どうしてこんな所に丸太があるのだろうか。

 生きている――。

 その古めかしい樹木の丸太を見て、何故か瀧田はそう感じた。その丸太の幹にはメスが突き刺されていた。現在手術室で使用されているものとは違う、古い型のもののようだが、錆ひとつなく、青白く光を反射している。瀧田はまるでメスに魅入られたように手を伸ばした。そして、メスを引き抜いてしまった。

 どこか、果てしのない遠くから、男の怒号のような声が聞こえた気がした。

 その時、瀧田は己の背後に凍りつくような気配を感じた。瀧田は振り返った。

 瀧田の背後に白衣の女が両手を広げて立っていた。白衣は手術着を兼ねた形状をしていたが、見る見るうちに大量の血痕が浮かび上がっていく。白衣の白地の上で、返り血だけが紅く鮮やかに映えていた。女は黒髪で、美しい顔立ちをしていた。だが、その笑みは年端のいかない子供のように無邪気で、それでいて残酷だった――。

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